令和の米騒動で考えること

昨年から米価の高騰が続き、「令和の米騒動」というべき社会問題になっている。また、夏の参院選を控えて政治問題化している。以下、この件について私が考えていることを述べたい。

まず、多くの日本人が「米が高くて困る」「生活できない。どうしてくれるんだ!」と騒いでいるが、ちょっといただけない。

日本人の1人当たりの米の消費量は1962年の年118.3キロをピークに一貫して減少傾向で、2022年には年50.9キロに落ち込んでいる。学校給食で子供たちに無理やり食べさせても、この有り様だ。多くの国民にとって、米はもはや主食でもなんでもなく、どうして大騒ぎしているのか、理解に苦しむ。

というと、必ず「俺は米を毎日食べてる。俺にとって米が主食だ」と反発する向きがある。そういう方には、「武士は食わねど高楊枝」という言葉を聞かせたい。米価が2倍になったら、量を半分に減らし他のものを食べれば良いではないか。この程度のことで大の大人が慌てふためいて、恥ずかしくないのだろうか。

それよりも個人的に気になるのは、政府は国民・野党の突き上げに右往左往し、野党はここぞとばかりに政争の具にするばかりで、日本の米作りをどうするべきか、という根本的な議論をしていないという点だ。

普通の資本主義社会でこれだけ米価が上がったら、米農家は喜んで生産を増やすはずだ。新規参入者が現れるはずだ。商社は輸入を増やすはずだ。備蓄米を放出したら、価格が下がるはずだ。

という普通の資本主義社会なら当たり前のことがまったく起こらず、米価が長期に渡って上がり続けているのは、長年の農水省による減反政策や輸入規制、全農の流通支配によって、米の生産・流通が機能不全に陥っているためだ。

個人的には、もはや米は日本人の主食でもなんでもないわけだから、特別扱いをせず、市場原理が働くように生産・流通の仕組みを抜本的に見直すべきだと思う。

という市場主義的な考え方に対しては、「米作りは単なる食糧生産ではない」という反発がある。

先日もある知人から、「米作りは、田んぼという形を通じて、水害防止、地下水涵養、美しい景観形成、生態系の維持、地域の祭礼・伝統行事の支えなど、多面的な社会的役割を担っている。米は日本の文化、日本の国土そのものであり、食料生産の効率だけで米作りを考えるのは間違いだ」と言われた。

たしかに一理ある考えだが、私が「でも当の農家の人たちは、景観の維持とか、祭礼・伝統行事の支えとかを望んでいるんでしょうか」と指摘したら、知人は黙ってしまった。

いま、新しい農家のなり手がおらず、専業農家の平均年齢は68.7歳(2023年現在)に達している。重労働の米作りだけでも大変なのに、さらに景観の維持だの祭礼・伝統行事の支えだの面倒くさいことを期待されたら、米作りの担い手がますます減るに違いない。

日本人はどんどん米を食べなくなっている。農家が高齢化し、米作りからどんどん逃げ出している。という事実を直視し、一方で日本の文化や国土を誰が守るのかという点も踏まえて日本の米作りのあり方を真剣に考えたいものである。

 

(2025年5月12日、日沖健)