三菱財閥が今日まで生き残っている理由

三菱グループはよく「日本最強の財閥」と言われる。というより、他の財閥は戦後の財閥解体や近年の持ち合い解消などですっかり弱体化しており、「日本で唯一生き残った財閥」と言えるかもしれない。

「四大財閥(三井・三菱・住友・安田)」や鴻池といった明治の主要な財閥の中で、1870年に創業した三菱は最後発だった。その三菱が短期間で最も成功し、今日まで生き残っているのはなぜだろうか。

橘川武郎らによると、明治期の財閥の形成には、①政商からの脱却、②専門経営者の登用、③工業化の推進、という3条件が必要だったという(橘川『イノベーションの歴史』)。三菱は、当時の多くの財閥の中でこの3条件を「最も徹底的にやり遂げた」のだと思う。

海運業を興した岩崎弥太郎は、大隈重信派の政商として台頭し、西南戦争や台湾出兵の輸送を担い、一時は海運業で国内シェア8割という成功を収めた。ところが、大隈が明治政府から追放されると(明治十四年の政変)、反大隈の伊藤博文内閣に事業を妨害され、三菱は経営危機に陥った。弥太郎は危機の最中に失意のうちに世を去り、死の8か月後、三菱の海運事業はいったん幕を閉じた。

つまり、岩崎弥太郎の三菱は一時「最も成功した政商」になり、大隈の失脚によって不本意ながら①が実現した。そして、跡を継いだ二代目岩崎弥之助と三代目久弥が弥太郎が家業として遺した鉱山・造船など不採算事業を立て直し、不動産・化学など新事業を展開し、今日に至る三菱財閥の基礎を築いた。という経緯から、実質的に三菱財閥を形成したのは弥之助・久弥だと見る専門家も多い(たとえば河合敦『岩崎弥太郎と三菱四代』)。

しかし、岩崎弥太郎の功績も大きかった。私が弥太郎の功績で最も偉大だと思うのは、海運業での成功ではなく、②専門経営者の登用である。弥太郎は、従兄弟の豊川良平をヘッドハンター役に任じ、慶応義塾から荘田平五郎や山本達雄(のちに日銀総裁)、東京大学から加藤高明(のちに総理大臣)ら俊英を三菱に引き入れ、要職に就けて経営近代化に努めた。

岩崎弥之助・久弥は、弥太郎が引き入れた人材とともに③工業化にまい進した。とりわけ、「三菱の大番頭」と呼ばれる荘田平五郎は、実質的に弥之助と並ぶツートップの地位にありながら長崎造船所に所長として乗り込んで、6000トン級の常陸丸を受注・建造し、日本の造船業を世界トップレベルに引き上げた。

このように、戦前の三菱は、①②③を徹底的に成し遂げたことで、短期間で大成功を収めた。戦後、財閥解体など逆風が吹いても、専門経営者を中心に組織として対応したので、創業家の資本・人による統治に依存していた他の財閥に比べて影響が軽微だった。そのため、今日まで生き残っているのであろう。

ちなみに、三菱のライバルとされる三井はどうだったか。江戸時代に創業した三井でも、明治になって①②③が実現した。

三井は、唯一の直営事業だった三井銀行が東本願寺への不良債権で経営危機に陥ると、1891年山陽鉄道の社長だった中上川彦次郎(福澤諭吉の甥、慶応義塾出身)を社長に招いた。中上川は、不良債権処理・政府との不透明な取引の整理・工業化などの改革を進めた。

しかし、この改革に三井家や商業化路線の益田孝(三井物産創業者)らが反発し、中上川は次第に孤立するようになった。結局、中上川は、改革の成果を見ることなく社長就任から10年後に病死した。三菱と比べて、①②③ともにかなり不徹底なものに終わった。

ところで、先ほどの3条件を現代の中小企業向けにアレンジすると、以下のようになる。

  補助金に頼らず自力で経営する。

  有望な人材を引き入れ、従業員を育て、権限委譲する。

  ITなど新しい技術を取り入れて変革を続ける。

多くの経営者、とりわけ同族経営の中小企業経営者には、三菱の成功から学んで欲しいものである。

 

(2024年5月6日、日沖健)