大人と子供は別の生き物

先日、東洋経済オンラインに出した記事『「子供嫌い」の日本、アメリカと価値観が違う背景』の中で「アメリカでは子供は小さな大人、日本では大人と子供は別の生き物」というボストン大学グレッグ・シンガー教授の仮説を紹介したところ、複数の読者の方から問合せをいただいた。この場で3点解説しておきたい。

まず、フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの「子供は小さな大人ではない」という名言を取り上げて、「シンガー教授の仮説は、ルソーの主張に異を唱えるものなのか」という質問があった。→ ルソーの主張に異を唱えるものではない。

ルソーが生きた18世紀のヨーロッパでは、「子供は小さな大人であり、劣った存在」という認識が支配的だった。ルソーは、児童労働の廃止や子供への教育の必要性を訴えるために「子供は小さな大人ではない」と主張した。つまり、ルソーの主張は願望であって、シンガー教授が言うように、欧米では伝統的に「子供は小さな大人」である。

次に、「大人と子供は別の生き物という比喩は、ちょっと大袈裟すぎるのではないか」という指摘があった。→ 比喩でもないし、さほど大袈裟でもない。

古代から江戸時代まで、日本では貧困に苦しむ農村と不義密通が多かった都市部で「間引き」(親による子供も殺害)が行われていた。古代ギリシャのスパルタでは、軍隊に不適格な男子を間引くことはあったが、民衆による日常的な間引きは、日本独特の風習である。そして、親は子供を殺すことに罪悪感がなかった。経済的に育てられないと思ったら、さっさと絞め殺し、転生の妨げにならないように葬式をせず、墓も建てなかった。

「間引き」は、「子返し」とも言われる。民俗学者・柳田国男が「7歳までは神のうち」と言ったように、子供は7歳までは神霊の世界と俗世の境目にいる(根拠に乏しい説だとも言われる)。間引きは、乳幼児が病気で死ぬのと同様、預かった子を神様にお返しするだけの話で、別に悪いことでもなんでもない。だから、罪悪感がなかったのである。

「江戸時代とか古い話を持ち出すなよ」と言われるかもしれないが、そうでもない。今日、キリスト教文化圏では中絶がかなり制限されているのに対し、日本では罪悪感なくごく普通に行われている。明治以降、間引きは禁止されたが、「神のうち」が7歳から0歳に短縮されただけで、「大人と子供は別の生き物」という考え方は、現代にもしっかり伝わっている。

最後に、「程度の差はあれど、すべての親が子供を愛し、子供の成長を願っている。親が我が子を好きではないというのは、納得できない」という感想(というより批判)をいただいた。 →昔の日本人は、嫡男以外の子供を愛していなかった。さて今はどうだろうか。

仏教の六道(のうちの三悪道)の1つに「餓鬼道」があり、「餓鬼(ガキ)」とは常に飢えと渇きに苦しむ亡者である。家父長制では、家長の後を継ぐ嫡男(一般的に長男)だけが子宝で、その他の子供(次男以下の男子、女子、障害児など)は餓鬼だった。ごくつぶしの餓鬼を間引くのは別に悪いことではなく、親の餓鬼に対する愛情は極めて希薄だった。

今日、嫡男とそれ以外を区別する風習は消滅しつつある。ただ、記事でも指摘した通り、子供を厄介者だと考える風潮は、今でも根強い。

ところで、近年、江戸時代を「人と人の繋がりがある、人情味溢れる社会」「平穏に暮らせる安心社会」「リサイクルシステムが確立されたエコ社会」などと再評価する声がある。たしかにそういう面も部分的にはあったかもしれないが、全体的には、上に紹介した貧困・間引き、さらに差別・不衛生が蔓延する悲惨な社会であった。

江戸時代と比べると、現代社会は多くの面で改善しているが、まだまだ理想の社会には程遠い印象である。

 

(2023年5月22日、日沖健)