不真面目な日本人

本日からマスク着用のルールが緩和されるのを前に、先週、私が所属する中小企業診断士の団体から通達が来た。

「(1)マスクの着脱は個人の主体的な判断を尊重する」という一言の後、「ただし…診断士には高齢者が多いことから…基本、マスクの常時着用を呼び掛ける…三密・長時間の会話を回避する」などとほぼ従来通りの感染対策が延々と列挙されていた。

要するに、「政府のお達しがありましたが、今まで通りマスク着用など感染対策の徹底をお願いします」ということらしい。この団体だけでなく、本日から多くの企業・団体がこれとよく似た対応をするようだ。しかし、これはずいぶんおかしな話だと思う。

コロナがあってもなくても、高齢者は体調が悪かったら外出を控える。風邪をひきやすい体質の人はマスクを着用し、人混みを避ける。政府や企業・団体がいちいち注意喚起しなくても各個人がそういう当たり前の判断をしてください、というのが「個人の判断を尊重する」という主旨ではないのか。

当たり前の判断ができない人がいるかもしれないから、周りの人が気を遣って従来の感染対策を続けよう、という今回の措置は、「個人の判断」をまったく尊重していないということになる。

「個人の判断」をないがしろにしても、何か大きなメリットがあるならまだ救いがある。しかし、当たり前の判断をできない人はごく少数だろうし、弱毒化したコロナによって今さら多数の死者が出るとも思えない。今回の措置はコロナ対策としてまったく無意味で、引き続き経済活動を抑制するマイナス効果ばかりだ。要するに愚策だ。

ダラダラと愚策を続ける企業・団体の責任者・担当者は、「万が一を考えて」「うるさい人から文句を言われたくない」という程度の動機だろう。ここで個人的に残念なのは、日本では「個人の判断」や「個人の権利」があまりにも軽んじられていることだ。

フランスなどヨーロッパ諸国では、マスクの強制は人権侵害に当たるとして、反対する市民のデモが頻発した。一方、日本では、政府から「個人で判断していいですよ」と言われても、愚策だとわかっているマスク着用の要請に「まあ仕方ないかな」「不自由な暮らしにも慣れたし」と納得し、反対の声を上げない。

一言で言えば「権利意識の違い」であり、大げさに言うと「戦って自由を勝ち取ったヨーロッパ諸国とお上から自由を与えられた日本の違い」ということなのだが、もう一つ、日本人は真面目なことを考えるのが大嫌いなのだと思う。

選挙の投票率は低く、票を集めるのは芸能人と二世。電車の中では、ゲームをやっているか、寝ているか、音楽を聴いているか。テレビを着けると、バラエティー番組ばかり。学生の話題はファッション・恋愛、会社員の話題は社内の噂話…。ヨーロッパ諸国や中絶の是非で大論争しているアメリカと比べて、真面目なことを考えるのを毛嫌いしているとしか思えない。

 

ここで謎なのは、幕末から1970年代まで、日本人は真面目なことを考えるのが大好きだった(らしい)ことだ。1980年代以降、すっかり不真面目になったのは、いったいどうしてだろう。幕末から1970年代までがむしろ例外で、元々日本人は不真面目なのだったというのが現時点の私の仮説である。今年の研究テーマとしてじっくり考えてみたい。