軍事技術と科学者の社会的責任

中国の台湾侵攻や北朝鮮の核開発といった脅威が高まっていることを受けて、国は軍事技術の高度化を進めている。そこで問題になるのが、軍事技術を開発する科学者の倫理である。

科学者の集まりである日本学術会議は、伝統的に科学技術の軍事目的の使用を否定してきた。朝鮮戦争が勃発した1950年とベトナム戦争が激化した1967年に、軍事目的の科学研究を行わないという声明を出している。

しかし、原子力・GPS・インターネットなどに見るように、多くの科学技術は軍事用と民生用の両方で使われており(いわゆる「デュアルユース」)、明確に区分するのは困難だ。山谷えり子参議院議員らの主張の通り、軍事利用と民生利用を区分せず自由に研究開発した方が、科学技術の発展にもプラスだ。

2020年の日本学術会議の新会員の選任を巡るすったもんだを経て、近年、日本の科学者もデュアルユース促進に傾きつつある。ここで科学者にとって、自分が生み出した技術が軍事利用された場合、責任を負うのかどうかが問題になる。

科学者の責任については、「科学者は自分が開発した技術の使われ方に責任を持つべきだ」という社会的責任肯定論と「科学者は技術開発のことだけを考えていれば良く、どう使われるかまで考える必要はない」という否定論がある。

科学哲学の学界では、社会的責任肯定論が優勢なようだ。しかし、個人的には、社会的責任否定論の方が現実的だと思う。以下の3つの理由による。

第1に、山谷議員らの主張の通り、科学者が技術の使われ方を気にすると、自由な研究ができなくなり、イノベーションが阻害されてしまう。

第2に、たいていの科学者は自分の専門分野以外のことには無知なので(専門バカ)、自分の技術が将来社会でどう使われるのか正確に見通すことはできない。

第3に、責任と権限は一体なので、責任を持つということは権限を付与することに繋がってしまう。

あまり指摘されていない3点目について補足する。たとえば、ワクチンを開発した科学者が、国民から「ワクチンの悪影響、たとえば死人が出たら、開発した科学者がちゃんと責任を持て」と迫られたら、「ワクチンの使用について権限を与えてくれないと、とてもじゃないけど責任を持てません」と反論するだろう。責任を負わせるために権限を与えると、やがてワクチンのことはすべて行政に代わって科学者が決めることになる。

つまり、科学者に社会的責任を求めると、科学者が科学技術に関するすべての権限を持つ「科学者絶対」の社会になる。これが健全な社会とは言えまい。社会的責任肯定論者は、権限と責任は一体だという中学生でも知っている原則を無視しているわけだ。

科学者は、明らかに軍事利用しか想定できないという場合を除いて(ちょっと考えにくいが)、社会的責任など一切気にせず自由に研究に専念するべきだ。そして、行政や国民が技術の使い方をしっかり議論し、チェックすると良い。もちろん、行政や国民が科学技術の使い方をチェックするというのは、容易なことではなく、しっかりした体制づくりが欠かせない。

結論的には、科学者が社会的責任を放棄する方が、科学技術が進歩し、社会が健全に発展し、科学者も国民も満足できるだろう。

 

(2023年1月9日、日沖健)