荘田平五郎との“出会い”

私は大学3・4年の時、東京・三田にある龍源寺というお寺が経営するアパートに下宿していたのだが、尊敬する荘田平五郎もその昔、龍源寺に住んでいたと今年たまたま知った。55年間生きてきてベスト3に入る驚き・感激である。

荘田平五郎は、明治時代に三菱合資会社・日本郵船・東京海上などの社長を務めた実業家である。よく「三菱の大番頭」と称される。大分・臼杵藩の下級藩士の家に生まれ、3度目の留学で慶応義塾の門を叩いた。荘田の才能は抜群だったようで、早速、福澤諭吉の目に留まり、入学して数か月で授業を担当し教えるようになった(学生兼教員、後に専任教員に)。そして、岩崎弥太郎にスカウトされて創業間もない三菱に転じた。

ビジネスマンになった荘田は、福澤が日本に輸入した複式簿記や原価計算をいち早く三菱に導入し、経営管理の近代化を進めた。政府から払い下げされた長崎造船所に自ら乗り込んで大改革し、日本の造船業を世界レベルに引き上げた。丸の内の土地買収を岩崎弥之助に進言し、丸の内を世界有数のオフィス街に発展させた。三菱グループのみならず、日本経済の今日の繁栄の礎を築いた、日本屈指のサラリーマン社長である。

荘田が慶応義塾に入った1870年(明治3年)のこと。当時、慶応義塾は東京・新銭座にあったが、塾生が増えて手狭になってきたので、近隣の寺院を借用し、分校として授業をすることにした。その時、福澤らの目に留まったのが、福澤の郷里・中津藩とゆかりの深い龍源寺だった。荘田は約50名の塾生とともに龍源寺に住み込み、翌年、現在の三田校舎に移転するまで1年間を過ごした。

それから115年たった1986年、私は龍源寺のアパートで大学3・4年の2年間を過ごした。龍源寺が慶応義塾の分校だったことは住職の松原泰道さんなどから聞いていたが、荘田のことは知らなかった。

その後私は会社員になり、2002年に独立してコンサルティング事務所を開業した。2004年から三菱重工業で長崎地区の幹部候補への研修の講師を担当することになり、2013年まで年13回、長崎造船所に通った(現在は年4回)。長崎造船所の事務所8階の特大会議室に歴代所長の写真が飾られていて、「第2代所長・荘田平五郎」の存在を知った。ただし、名前と略歴を知った程度だった。

昨年、あるきっかけで、サラリーマン社長のあり方に関心を持つようになった。日本では、古くは岩崎弥太郎や松下幸之助、近年では稲盛和夫や孫正義など、世界に誇る創業経営者はたくさんいるが、サラリーマン社長は土光敏夫と鈴木敏文が目立つくらいだ。「どうして日本では優れたサラリーマン社長がいないのか?」とあれこれ調べていくうちに、「おっと灯台下暗し、荘田平五郎がいるではないか」と気づいた。

そこで、今年は荘田について本格的に調べることにした。荘田の三菱での活躍だけでなく生涯についてもあれこれ調べているうちに、荘田とは115年の時間差で同じ龍源寺に住んでいて、すでに35年前に出会っていたと知るに至った。

普通、恋人など好きな人との出会いは、「出会う」→「相手を知る」→「好きになる」という順序で進む。ところが、私の荘田平五郎との出会いは、「出会ったが気付かず(1986年)→「再び出会う(2004年)」→「好きな人を探す(2020年)」→「出会った相手が好きな人だったと知る(2020年)」→「大昔に出会っていたと気付く(2021年)」という稀な展開になった。

この一件で、私は「出会い」について大いに考えさせられた。

出会った人を好きになるだけでなく、自分の好きな人とは、すでにどこかで出会っているかもしれない。私はたまたま素晴らしい出会いに気付いたが、気付かないで通り過ぎてしまうことが多いだろう…。

人との出会いは、もちろん偶然の産物。しかし、色んなことに関心を持つことによって、出会いに気付き、出会いが広がっていく…。

これからも、今回のような素敵な出会いを積み重ねていきたい。

 

(2021年9月27日、日沖健)