楽しくお酒を飲んで幸せになろう

アダム・スミスと言えば経済学の祖であるが、当然ながら当時は経済学は存在せず、スミスは哲学・倫理学の学者だった。哲学者・倫理学者のスミスは、幸福について次のような興味深い逸話を紹介している。

・・・エピルスの王の寵臣が王に言ったことは、人間生活の普通の境遇にあるすべての人びとにあてはまるだろう。王は、その寵臣に対して、自分が行なおうと企てていたすべての征服を順序だてて話した。王が最後の征服計画について話し終えたとき、寵臣は言った。「ところで、そのあと陛下は何をなさいますか」。王は言った。「それから私がしたいと思うのは、私の友人たちとともに楽しみ、一本の酒で楽しく語り合うということだ」。寵臣はたずねた。「陛下が今そうなさることを、何が妨げているのでしょうか」。(スミス『道徳感情論』)

スミスというと、弱肉強食の自由主義経済の信奉者だと思いがちだが、そうではない。「一本の酒で楽しく語り合う」こと、つまり慎ましく平穏無事な生活を送るのが幸せな状態だというのだ。

いま、東京など各地で緊急事態宣言・まん延防止措置が出されて、飲食店での飲酒が禁止・制限されている。居酒屋での飲酒がコロナ感染拡大の急所であり、徹底的に取り締まろうということらしい。しかし、この「禁酒令」は完全に間違った政策だと思う。

まず、憲法が保障する営業の自由を制限するからには、かなり明確な根拠が必要なはずだ。ところが、政府分科会は1年経つのに「酒を飲んで大声を出すと飛沫が飛ぶ」と繰り返すだけで、飲酒と感染拡大の因果関係を科学的に説明していない。感染者に占める居酒屋経路の割合は小さいし、居酒屋でのクラスター発生事例も非常に少ない。

政府は、感染を抑制する効果よりも、国民に緊張感を持たせるアナウンスメント効果や「国の言うことを聞かないと痛い目に遭うぞ!」という見せしめを狙って、国民がイメージをしやすい居酒屋を悪者にしているのではないだろうか。だとしたら、どこぞの独裁国家のようで非常に悪質だし、狙い撃ちされた居酒屋は気の毒な限りだ(昨年パチンコ業界が狙い撃ちにされかかったが、阻止した。居酒屋業界とは政治力の違いか)。

また、仮に政府が言うように「居酒屋での飲酒が感染拡大の急所」だとしても、今、そこまで感染者数に執着するべきだろうか。ウイルスをゼロにするのは不可能で、季節性インフルエンザと同様、ある程度の感染者が出るのは仕方なく、最終的に死亡者を出さないことが大切だ(次いで、病床をひっ迫させないこと)。

新規感染者数が急増しているのとは裏腹に、5月以降、重症化リスクが高い高齢者へのワクチン接種を進めた結果、全国の1日当たり平均死亡者数は5月91人、6月57人、7月13人と急減している(なぜかマスコミはスルーしているが)。死亡者という最も重視すべき被害について、コロナは「ほぼ克服された」と言えるのではないか。日本もイギリスなどを見習って、経済の足かせなる過剰な感染対策を緩和・撤廃するべき時期に来ている。

以上が「禁酒令」を解除するべき理由だが、それよりも個人的に残念なのは、政府だけでなく、国民も政府やマスコミに洗脳されて居酒屋叩きに熱中していることだ。SNSでは「国家が存亡の危機にあるときに酒を飲むとは何事だ。こんな時くらい我慢しろよ」「闇営業の居酒屋は国民の敵だ。さっさと潰してしまえ」という怒りの声が溢れている(さすがに7月からは「居酒屋いじめはやめろ」という声が増えてきたが)。

アダム・スミスが指摘するように、「一本の酒で楽しく語り合う」ことは多くの人にとって人生最大の幸福だ。国民の幸福に奉仕するべき国と幸福な暮らしを楽しむべき国民が口を揃えて「国民(われわれ)は幸福になることを諦めて、ずっと家に閉じこもっていろ(いよう)!」と大合唱しているのは、なんとも不幸なことだと思う。

個人的には、6月以降、通常営業している居酒屋を探して、週1ペースで家族で「数本の酒で楽しく語り合」っている。もちろん、家族で酒を飲むひと時が幸せに感じるからだが、同時に理不尽な政策を強制する政府への抵抗、悲劇に見舞われた居酒屋へのささやかな応援という意味も込めている。

 

(2021年8月2日、日沖健)