安心神話が日本をダメにする

先週、日本人は安心を重視し、イギリス人と比べて安心のために多大なコストを負担していると書いたところ(7月19日「安心のコストと幸福」)、敬愛する知人から「日英でなぜそういう違いが生まれたのか?」「経済にどういう影響があるのか?」という質問をいただいた。今週は、日本人が“安心神話”を持つに至った原因とその影響について考えてみたい。

まず、原因について、安全・安心の順序を確認しよう。安全とは客観的・物理的に危険が小さい状態であるのに対し、安心とは主観的・心理的に危険が小さいと感じることである。人は、安全でない状態から出発し、最初に「安全に暮らしたい!」と考え、安全な状態になったら、それに飽き足らず「安心したい!」と願う。安心は、安全が実現して初めて本格的に発現する高度な欲求であり、安全が原因(大前提)、安心が結果という関係が成り立つ。

欧州では、古代から対立と抗争を繰り返してきて、安全ではない。それに対し日本は、元寇と第2次世界大戦を除いて、ほぼ一貫して安全だ。国家レベルだけでなく国民生活のレベルでも、貧しかった中世の頃から日本では犯罪発生率がかなり低かった。日本人が安心を求めるのは、世界で屈指の安全な社会だという事実がある。

もう一つ、宗教の影響も大きい。マックス・ヴェーバーら宗教社会学の研究によると、人の生き方は、その社会で支配的な宗教が現世・来世をどう捉えているかに大きく左右される。欧州のキリスト教と日本の仏教では現世・来世の捉え方が違い、それが現世を楽しく過ごすか禁欲的に生きるか、という違いに反映される。ただ、私は宗教社会学に詳しくないので、これについては論点を提示するにとどめたい。

では、日本人の安全神話は、日本にどういう影響をもたらすのか。結論的には、日本人の安心神話は経済に大きな負担・足枷で、今後も日本人が安心に暮らし続けるのは難しそうだ。

先週は警備保障を例に出したが、他にも日本では、高齢者向けを中心に、過剰に安心に配慮した製品・サービスがたくさんある。たとえば、高齢者の介護はインドネシア人に頼んだ方がはるかに安いのに、「日本人じゃないと不安」「肉親の方が安心できる」として、莫大なコストを負担している。食品の安全基準も、安心のために過剰なものになっている。

警備保障の市場規模が3.5兆円らしいので、日本全体では安心のために十兆円超のコストを負担しているのではないだろうか(誰か専門家が推計して欲しい)。GDPが約500兆円で止まり、25年以上もほぼゼロ成長が続く日本にとって、これは大きな重荷だ。

さらに、今後を見据えて私が問題だと思うのは、安心神話がイノベーションを停滞させてしまうことだ。イノベーションは過去にない新しい事柄を意味し、イノベーションを生むにはこれまでのやり方を否定し、新しいやり方を試みる必要があり、失敗する可能性が高い。イノベーションの本質はリスクテイクである。

企業の株主・経営者・従業員が安心を重んじるなら、リスクテイクしてイノベーションに挑むよりも、これまでと同じビジネスを粛々と続けるに限る。近年日本では起業や新規事業創造が停滞し、アメリカのGAFAのようにイノベーティブな企業が生まれないのは、株主・経営者・従業員が安心を重んじることに一因がある。イノベーションに消極的な日本企業の将来は暗い。

以上から日本人は、「経済的な犠牲を払ってでも、安心に暮らそう」と選択しているわけだ。そして、知人と飲みながらこの話をすると、「日本人が自分で決めた生き方なんだから、お前がとやかく言っても仕方ないだろ」と突き放されてお開きになることが多い。

しかし、いまは良いとして、日本人が今後も安心に暮らし続けることができるのだろうか。

日本企業がグローバル競争に敗れれば、利益・賃金が減り、法人税・所得税が減る。すると、警察・安保・医療・インフラといった安全を左右する公共のサービス・施設が劣化し、安心どころではなくなる。また、少子化で若い働き手がいよいよ減り、日本の若者に公共サービスを担ってもらうこともできない。安全の基盤がどんどん蝕まれていく中、安心な暮らしを続けるというのは、ちょっと考えにくい。

ところで、私にとって大きな謎は、安心大好き=不安大嫌いな日本人が国家財政の話題になると、途端に不安心理をなくしてしまうことだ。国の借金が増えて世界最悪の財政状態だというニュースが出ると、ネット掲示板やSNSには「将来が不安」というコメントはほぼ皆無で、「安心しろ。日本が破産するはずない」「いたずらに不安を煽る財務省やマスコミはけしからん」といった強気コメントで溢れる。

これは、いったいどういう心理状態によるものだろうか。心理学を一から勉強してみたいと思っている。

 

(2021年7月26日、日沖健)