安心のコストと幸福

世界のスポーツイベントで最もファンの熱狂を呼ぶのがサッカーの欧州選手権、ユーロ(と南米選手権・コパアメリカと米大学バスケットボール・NCAAトーナメント)。7月11日イギリスでユーロ2020の決勝が行われ、イタリアが地元イングランドを下して優勝した。

ところで、この試合はイギリス政府による大規模イベント再開に向けた実証実験に指定され、6万人超の観客を入れて開催された。イギリスではワクチン接種が進んでいるが、それでも1日当たり数万人の新規感染者が出ている。観戦者に「2週間前までにワクチン接種を終了」「試合前のPCR検査で陰性」という2つの証明を義務付けたとはいえ、今後の感染拡大が懸念されるところだ。

このニュースを耳にした日本人の大半が、「ずいぶんと思い切ったことをするなぁ」と思ったに違いない。感染者数がけた違いに少ない日本で行われる東京オリンピック・パラリンピックがほぼ無観客になったのとは、あまりにも対照的だ。

このニュースを聞いて気になったのが、「安心のコスト」である。

当初、東京オリンピック組織委員会は、オリンピックで780万人、パラリンピックで230万人、計1,010万人の観客を想定していた。入場料・交通費・宿泊費・飲食代で1人10万円を使うとしたら、この部分の経済効果は1兆円だ。良い悪いは別にして、無観客開催にしたことで、「安全・安心」のために1兆円が失われた。

よく「安全・安心」と一括りで言われるが、安全と安心はかなり異なる。安全は客観的・物理的に危険が小さいことで、安心は主観的・心理的に危険が小さいと感じることである。1兆円のうち安全でいくら、安心でいくらと分解するのは困難だが、日本では元々コロナによる重症者・死亡者が少なく、ワクチン接種でさらに実質的な被害が減っていることからすると、1兆円の大部分は「感染が広がると何となく不安」という安心のコストと考えられる。

つまり、イギリスなど諸外国と比べて日本には「安心のコストが格段に大きい」という特徴がある。日本では、コロナだけでなく社会の様々な場面で、安心のために多大なコストを負担している。

たとえば、ホームセキュリティのセコムは、約1兆円の売上の96%が日本国内で、海外市場の開拓は進んでいない。セコムの警備員は丸腰で、侵入者を捕まえるわけではないので、セコムに加入してもさして安全ではなく、「セコムの赤いお札が付いていると何となく安心」というだけだ。セコムが海外に普及しないのは、海外では安心に高い金を払う人は少ないわけで、セコムは安心に絶対的な価値を置く日本ならではの特殊なビジネスと言えそうだ。

ここで、イギリス人と日本人では、幸福の捉え方がかなり異なるのではないか、という気がしてくる。

ユーロ2020をスタジアムで観戦したイギリス人(と一部イタリア人)も、感染の不安はあっただろう。しかし、確率的にかなり安全なことはたしかで、不安におののいて自宅観戦するよりは「待ちに待ったユーロの決勝。一度きりの人生だし、楽しまなきゃ損」と考えたに違いない。イギリス人にとって、やりたいことをやって楽しむのが幸福な状態らしい。

それに対して大半の日本人がオリンピックの無観客開催や中止を支持しているのは、「一時の楽しみのために人生を棒に振っても仕方ない。不安な気持ちで現地観戦しても楽しくない」という考えだろう。日本人にとって、病気やけがをせず、不安なく平穏無事に暮らすのが幸福な状態だ。

コロナやスポーツだけではない。アメリカ人やスペイン人の高齢の知人としゃべると「今度はここに旅行に行きたい」「このオペラを聴きたい」といった前向きな希望を聞かされる。それに対し、日本の高齢者からは「老後の資金は大丈夫かな。息子はちゃんと面倒を見てくれるかな」という不安の声を耳にする。

もちろん、安心のコストも幸福の捉え方も人の気持ちの問題なので、日本人と欧米人のどちらが正しい、間違っているという問題ではない。しかし、われわれ日本人が独特の幸福感のために異常な高コストを負担しているという事実は、しかと認識するべきだろう。個人的には、ほどほどに「安全」なところで納得し、過度な「安心」を求めず、人生を楽しみたいと思っている。

 

(2021年7月19日、日沖健)