客観性とはどういうことか

 

新型コロナウイルスでは、様々な情報が交錯し、分析・意見が飛び交っている。その中でよく強調されるのが「客観性」。

 

「ガセ情報にはウンザリ、客観的な情報が欲しい」

 

「客観的な分析に基づいて政策を決めるべきだ」

 

ところで、「客観性」とはどういうことだろうか。マックス・ヴェーバーはその名も『社会科学および社会政策にかかわる認識の「客観性」』という論文(私が過去に読んだ中で最も難解な論文。一読をお勧めしない)で、「客観性」について次のように「価値自由」という考え方を提示している。

 

数値化して認識できる自然現象と違って、社会現象を認識する際には、どうしても個人が持っている価値前提が入り込んでしまう。ここで、個人の価値前提を排除するのではなく、自分自身の価値前提や政治的な立場、そして認識の限界を自覚し明示することが、社会現象を扱う上での客観的な態度である…。

 

例を挙げよう。4月下旬以降、大きな国民的議論になっているのが、緊急事態宣言の延長。延長するか否かには、さまざまな意見がある。代表的な利害関係者の判断と論拠は、次のようなものだ(あくまで一例)。

 

l  個人事業主・零細企業「反対。これ以上休業を続けたら、破産・倒産してしまう」

 

l  学生「反対。毎日家の中なんてウンザリ。バイトもできなくて、生活が苦しい」

 

l  高齢者「賛成。我々の歳だと重篤化のリスクが大きい。コロナを徹底的に封じ込めて欲しい」

 

l  医師「賛成。医師の使命として、少しでも感染リスクを減らす施策に賛同する」

 

l  マスコミ「賛成。自宅でテレビを見てもらえるし、危機を煽るほど視聴率が上がる」

 

l  大手企業社員・公務員「賛成。うちの会社は潰れないし、給料も減らない。自宅でゆったり仕事ができてなかなか快適」

 

l  政治家①「賛成。自粛解除し、もし感染爆発が起こったら、責任を問われる。」

 

l  政治家②「賛成。“危機と戦う政治家”とか“国民を守る政治家”とアピールしたい。」

 

ちなみに私は、個人事業主・零細企業の立場から、「延長反対」である。

 

ヴェーバーによると、客観性に欠ける好ましくない態度とは、自分は様々な利害関係者の立場を超越し、不偏不党で自説を主張している、と振る舞うことだ。たとえば、個人事業主がマスコミからインタビューされて「私は全ての庶民の気持ちを代弁して延長反対を主張します」と答える具合だ。

 

逆に、客観的で好ましい態度とは、自分が拠っている前提・立場やそれによる限界を自覚し、明示した上で、自説を主張することだ。たとえば、医師が「私は生命を守るという立場から、感染リスク阻止という点に絞って賛成意見とその論拠を以下説明します」と主張する具合だ。

 

ここで厄介なのが、政治家である。政治家は、国民・住民がさまざまな立場で異なる利害を持っていることを理解し、総合的に政策を判断しなければならない。ところが、政治家も一人の人間として自分なりの立場・利害があるので、なかなか総合的に判断することができない(とくに野心が強い政治家②)。

 

自分の立場や利害を優先する政治家を見た国民・住民が「俺たちと同じ数ある利害関係者の一つなんだ」「結局は私利私欲で動いているんだ」と感じたら、その政治家と利害が一致する人を除いて、政治家の意思決定に従おうとしないだろう。政治家には、自分の立場・利害を我慢する厳しい自己規律が要求されるのだ。

 

今、政治家がかつてないほどの注目を集めている。国民・住民は、政治家が打ち出す政策の中身もさることながら、政治家自身が厳しい自己規律に従っているかどうかを注視している。

 

(2020年5月18日、日沖健)