議論が下手な日本人

 

2020年度から大学入試センター試験に代わって始まる大学入学共通テストで導入予定だった国語と数学の記述式問題について、萩生田光一文部科学相は先週17日、導入を延期すると発表した。すでに同じく共通テストで導入の予定だった英語民間試験の活用の延期が決まっており、安倍政権が推進する大学入試改革の象徴であった共通テストは、英語民間試験の活用と記述式問題の導入という二本柱が頓挫した。

 

英語民間試験の活用については、受験場所が都市部に偏っていることや受験料が高額であることなどが問題になった。記述式問題については、業者がアルバイト使って採点することから公平性を確保するのが難しいことが問題視された。

 

いずれももっともな批判だが、もう少し発展的な議論をできなかったものかと思う。今回の大学入試改革は、グローバル化を踏まえて実践的な英語力が身に付けてもらおう、記憶力だけでなく応用力・考える力も養ってもらおうという趣旨で、総論では国民の賛同を得ていた。ところが、いざ実施が迫ると、各論で反対意見が噴出し、議論そのものが振り出しに戻ってしまった。典型的な総論賛成・各論反対だ。

 

総論賛成・各論反対は決して珍しいことではない。総論のときはどこか他人事だったが、各論で自分に差し迫ってくると反対が出てくるというのは、心情としてよく理解できる。ただ、総論で賛成だったなら、各論での停滞を「何とかして打開しよう」と努力するべきではないだろうか。対立を回避するために「慎重に議論を進めることにしよう」と総論を含めて議論を振り出しに戻してしまうのは、残念な展開だ。

 

これと少し似た議論が深まらないケースとして、平均値の議論がある。たとえば、「日本人は身長が低い」と平均を論じても「いや、ジャイアント馬場とか背の高い人もいるだろ」という例外的な各論が出てくると、そこで話が終わってしまう。企業でも、「わが社は現状への危機感が足りない」と全体を論じても、「総務の丸山君とか危機感のある若手もいるよ」と言われて改革が進まないということがよくある。

 

もう一つ日本人が苦手なのが、「どちらがマシか?」という議論だ。たとえば、外国人労働者の受け入れについて、反対派は「受け入れると治安が悪化する」と推進派を批判する。推進派は「受け入れないと、介護の担い手がいなくなる」と推進派を批判する。本来、治安悪化と担い手不足で「どちらがマシか?」を議論しなければいけないのに、お互い相手の主張を「今と比べて悪くなる」と批判している。比較の対象が根本的に間違っているのだ。

 

他にも消費税の引き上げや医療費の自己負担のように、人口減少や国力低下で縮小していく日本では、こうした「どちらがマシか?」という後ろ向きの議論がどうしても増えてくる。「どちらが良いか?」は間違えてもさほどのダメージにならないが、「どちらがマシか?」は判断を間違えると致命傷になりかねない。大事な判断を間違えないように、後ろ向きの議論に今から慣れておく必要がありそうだ。

 

子供の頃から学校でディベートを学ぶアメリカ人と比べて、日本人は他人と討論することが苦手だと言われる。今回、共通テストの英語民間試験や記述式問題の導入は頓挫したが、代わってディベート試験を導入して欲しいものである。ディベートが入学試験になじみにくいのは当然だが、ディベート能力が重要だと総論賛成なら、各論も何とかするということで。