勤勉革命と宗門改帳

 

先週12月4日、慶応義塾大学名誉教授の速水融(はやみあきら)先生が亡くなられた。享年90歳だった。

 

速水先生は日本経済史の第一人者で、近代以前の人口の変遷などを研究する歴史人口学という学問領域を開拓した。かつては「停滞の時代」と信じられていた江戸時代が実は高い成長と経済構造の高度化を実現していたことを明らかにした。その原因として、西欧とは異なる勤勉革命(industious revolution)があったと主張し、世界的なセンセーションをまき起こした。

 

速水先生の勤勉革命によると、イギリスなど西欧の産業革命(industrial revolution)が労働を節約し、動力機関や家畜など資本(設備)を導入して生産性を上げる「資本集約型」であったのに対し、江戸時代の日本では資本を節約し、労働量を増やして生産性を上げる「労働集約型」であったという。

 

速水先生が勤勉革命の理論に至ったのは、長年に渡る宗門改帳の研究の結果である。宗門改帳(宗門人別改帳)とは、江戸時代中期に民衆調査のために作成された台帳で、現在の戸籍原簿や租税台帳に当たる。速水先生は、長期休暇のたびにゼミの学生と一緒に車に乗って全国各地を巡って宗門改帳を収集し、そのデータを元に農村に住む人たちの生活を実証分析した。

 

学問の世界では、たまに世間をあっと驚かせる壮大な構想を打ち立てる研究者が現れる。しかし、実証的な裏付けがなく、なんとも胡散臭い。一方、多くの研究者は、重箱の隅を楊枝でほじくるように実証データを積み上げる。しかし、そこで止まってしまい、飛躍した構想がないので、面白さ・発見がない。その点、構想(勤勉革命)と実証(宗門改帳)を高いレベルで両立していた速水先生は、研究者の究極の姿だったと言えよう。

 

ついでながらビジネスの世界でも、優れた経営者は構想力を持って「決める」ことと部下など他人を「導く」ことを実践している。優れた従業員は業務を処理する「スキル」とそれに熱意をもって取り組む「モチベーション」を両立させている。学問でもビジネスでも、成功するには異なる2つのことに卓越する必要がありそうだ。

 

私は大学1・2年の頃、知的な職業に憧れて「学者になりたいなぁ」とぼんやり考えていた。しかし、大学3年のときに速水先生の日本経済史の講義を聞いて、「速水先生のような偉大な学者には絶対になれないな」と思い知り、学者になることを諦め、ビジネスの世界に進むことにした。私の人生の進路に大きな示唆を与えてくれたのが、速水先生だった(もう一つ、マックス・ヴェーバー『職業としての学問』からも大いに影響を受けた)。

 

その後2011年夏に、速水先生と慶応義塾大学・三田校舎の近くでたまたまお目に掛かる機会があった。当時、速水先生はすでに82歳で、大学を退官されていたが、校舎の近くに事務所を借りて研究のために自動車を運転して毎日通って来ているとのことだった。速水先生の年老いても衰えない学問への情熱を知って、改めて学者になることを諦めた自分の判断は正しかったのだと納得した。

 

来週、私が石油会社に勤務していた頃の直属の上司で、速水ゼミのOBであるOさんと忘年会でご一緒する。速水先生のことを悼み、私の人生を導いてくれた感謝とともに盃を捧げたい。ご冥福をお祈りします。合掌。

 

(2019年12月9日、日沖健)