間違った言葉を使い続けない

 

元号が令和に変わり平成の時代を振り返るとき、「失われた30年」と表現することがある。たしかに、昭和末期にバブル景気が起こり、平成元年(1989)に日経平均株価がピークを付け、その後はバブル崩壊、金融不安、デフレ不況、東日本大震災などで平成の30年間、日本経済は低迷した。誰が言い出したのか、2000年頃に「失われた10年」と言われるようになり、いつやら20年、今日30年になった。

 

「失われた」という表現は、アメリカでヘミングウェイら1920年代の作家群が「失われた世代(lost generation)」と呼ばれたことをもじったのだろう。また、池井戸潤『ロスジェネの逆襲』のように、最近日本では、平成不況で就職氷河期に見舞われた世代(今の40代)のことを「ロスジェネ」と呼ぶらしい。

 

ここで個人的に一つ引っかかるのは、「失った」という能動態ではなく「失われた」という受動態が使われていることだ。日本の繁栄は、米国とか中国とか誰かの手によって「失われた」わけではない。政府・企業・家計が1990年代以降のグローバル化・IT化・少子高齢化といった変化に対応できず、それまでの成長性やグローバル市場での優位性を「失った」のだ。

 

にもかかわらず、「失われた」と受動態を使うのは、経済の低迷が自分に差し迫った緊急事態ではなく、他人事だという意識が根底にあるからだろう。また、「俺たち経営者(政治家)はしっかり頑張ってきたのに、外部環境の予期せぬ変化や政府の無策(企業の努力不足)のせいで酷い状態になってしまった」という他責的な気持ちが垣間見える。

 

マクロ経済の出来事が他人事に思えたり、不都合な状況を他人のせいにするのは、よくあることだ。気持ちはわからなくない。しかし、ある問題を他人事、他人のせいと思っている限り、人は主体的に解決に向けて取り組むことはない。「失われた」という表現は、まったく間違いではないとしても、問題解決に向けた主体的な行動を抑制してしまう面があり、好ましくない。

 

言葉には、意識的に発するものと無意識で発するものがある。人々は「失われた」と無意識で言うのだが、無意識なら問題ないというわけではない。無意識であっても、長く言い続けているうちに、いつの間にかそれが本心になってしまうからだ。「疲れた」と口に発すると本当に疲れてくるし、「つまらない」と言いながら仕事をしていると本当につまらなくなる。「失われた」と言い続けると、自分が犯した問題が他人事に思えてくる。

 

ビジネスでは、無意識で使う好ましくない言葉がたくさんある。もう2つ紹介しよう。

 

不祥事を起こした企業の記者会見でよく耳にする「この度の不祥事を受け、更なる従業員教育の徹底に努めて参ります」。あることを“更に”徹底するのは、これまでのやり方が正しかった場合だ。「更なる」という言葉には、「今回はたまたま運悪く不祥事が見つかっちゃったけど、俺たちのやり方は間違っていない」という口に出せない反発が込められている。私の知る限り、「更なる」が口癖になっている反省しない人が何か改革を実現することはない。

 

「当社では、お客様にご迷惑をかけるようなことは一切しておりません」。あることを“一切”やっていないと言い切るには、過去の従業員の行動すべてをチェックする必要があり、事実上不可能だ。「調査した範囲では」と制限を付けずに「一切」と言い切るのは、嘘を付いていることになり、虚勢を張る性格や慎重さに欠ける性格を表している。まったく信用ならない人と言えるだろう。

 

たかが言葉、されど言葉。人は思考して言葉を発するとともに、発した言葉が思考を規定するという逆もある。意識して発する言葉だけでなく、無意識で発する好ましくない言葉にも注意したいものである。

 

(2019年9月9日、日沖健)