意欲を持って頑張ってはダメだそうです

 

先日、ある都内私立大学の大学生協の店長とお話しする機会があった。店長が「最近の学生は本を読まない」と嘆くので、「そうは言っても就職対策本くらいは読むんでしょ?」と訊ねると、「いえ、就職対策本すら読みませんよ」ということだった。そして、次のような話を聞かせてくれた。

 

「うちの学生は、とにかく意欲が低いんです。一流大学に入るために受験勉強を頑張るという経験をせず、とりあえず勉強しなくても入れる大学ということでうちに来ています。高校の進路指導も「無理するな」ですからね。就活も同じです。今は人手不足だから、内定を取ることはそんなに難しくないでしょ。うちの学生は特別な準備をせず、早く内定をくれたところに適当に入社します。意欲を持って頑張るって、もう死語なんですかねぇ。」

 

私の接する範囲では意欲的に困難な目標に挑戦する若者が多いので、少し意外な感じがした。ただ、今の学生の一面を垣間見る興味深い話だったので、何人かの知人にこの話を紹介した。すると、そのうちの一人から次のような強い反発を受けた。

 

「意欲を持って頑張れというのは昭和の論理、そして強者の論理だ。その店長の話はちょっと受け入れられない」

 

人口が増え、市場が拡大した昭和の時代には、意欲を持って頑張れば成果を出すことができた。しかし、高齢化・人口減少で市場が縮小する今の時代、頑張ってもなかなか成果を出すことはできない。「頑張れば報われるんだから頑張れ」というのは時代環境を無視した昭和の論理で、現代にはそぐわない―。

 

意欲を持って頑張っても、成果を実現できるのは高い能力を持つ一握りのエリート、強者だ。特別な能力を持たない大半の庶民は、頑張ってもなかなか成果を出せない。「意欲を持つべし」というのは、成果を出せる強者にとって都合が良い論理で、一般庶民には当てはまらない―。

 

たしかに、現代は頑張っても成果を出しにくい、一般庶民は頑張ってもなかなか成果を出せない、というのは事実だろう。だからと言って、昭和の論理・強者の論理と決めつけ、意欲を持って頑張ることを拒否して良いものだろうか。

 

今の学生は、平均寿命が100歳として、2100年頃まで生きる。国連人口部の推計によると、日本の総人口は2100年には現在より5000万人も少ない7500万人になる。当然、国内中心のビジネスでは立ち行かず、世界で戦うしかない。そして、グローバル市場には「もっと豊かになりたい!」と意欲をみなぎらせる発展途上国の企業が待ち構えている。発展途上国の頑張る人たちとの競争に勝つには、日本人もそれ以上に頑張るしかない。

 

ロボットやAIの発達・普及も、労働者に頑張ることを迫る。いまのところロボットもAIも未発達なので、サービス業を中心に単純労働のニーズがかなりある。しかし、ロボットが発達すれば単純な肉体労働は消滅し、AIが発達すればかなり高度な頭脳労働も消滅する。労働者は、ロボットやAIには代替されない仕事をするために、頑張って能力開発に努めるしかない。

 

 平成生まれの今の若者は、生まれてから今まで「頑張れば報われる」という光景を見ていないので、頑張ることに懐疑的になりやすい。それは大いに理解・同情できる。しかし、成功をイメージできないからと言って、成功を目指して頑張ることを放棄すれば、ほぼ確実に悲惨な未来が待っている。頑張るかどうかは、好き嫌いの問題ではなく、惨めな人生を受け入れるかどうかという、人生の選択の問題なのだ。

 

意欲を持って頑張ることを否定する学校教師や大人は、一見、子供たちに理解・愛情があるようだが、実は子供たちを困難な状態に追い込もうとしているのである。

 

(2019年8月26日、日沖健)