平均を論じるのは無意味なのか

 

老後の資金として2,000万円の蓄えが必要だとした金融庁・金融審議会の報告書が波紋を広げている。今回の報告書に対しては、政界・マスコミにとどまらず、国民からも様々な意見が噴出している。ただ、細かい論点や麻生財務相の対応の是非はともかく、「年金だけでは長生きできない」という報告書の主旨は至って常識的な正論で、「そんなに大騒ぎするネタかなぁ」というのが、個人的な感想だ。

 

ごく当たり前のことで大騒ぎしていることについては、政治的な思惑など色々な理由がある。中でも、老後資金は他の話題と比べて状況を認識し、議論しやすい、俗な言い方をすると「食いつきが良い」ということではないだろうか。

 

今回、「平均」の老後資金が問題になっているが、老後資金よりもはるかに身近な平均が寿命。現在、日本人の平均寿命(ゼロ歳児の平均余命)は約84歳だ。生後間もなく命を落とす乳幼児もいれば、100歳を超える長寿もいる。しかし平均寿命について、「そんなの人それぞれだろ」とは言わない。ましてや騒ぎになることもない。

 

寿命(余命)は各人の健康状態に依存し、大半の人にとって遠い将来の話なので、正確に状況認識し、他人と比較するのは難しい。それに対し老後資金は、足りている・足りていないを金額で客観的に認識・比較することができ、はるかに食いつきが良い。サラリーマンの平均的な仕事ぶりは話題にならないが、平均年収がよく話題になるのと同じだ。

 

では、たまたま食いつきが良いネタが降ってきたから国民挙げてワイワイ騒いでいるだけで、「平均」そのものには意味がないのだろうか。今回、一部の専門家や評論家が「平均を論じても意味はない」と主張している。「老後の必要金額は、加入している年金、家族構成、健康状態などによって大きく異なる」というわけだ。

 

しかし、たとえ平均に該当する人が1人もいない場合であっても、平均には大きな意味がある。平均と比較することによって、自分の立ち位置がわかり、改善のヒントが得られるという点だ。

 

たとえば、「日本企業のROE(自己資本利益率=当期純利益÷自己資本)は平均10%」と報道されたとしよう。ROE5%のある会社で、株主はどうして低収益なのか経営者に質す。質問を受けた経営者は、経営状況を確認し、当期純利益が少ない原因、自己資本が多い原因を考え、今後の対応を株主に説明する。あるいは「当社は従業員の雇用や社会貢献を重視しており、そもそも収益性を重視していない」という説明になるかもしれない。

 

こうした分析と説明によって、経営者は自社の経営方針・立ち位置・問題点、今後どういう改善を進めるべきかを明確にすることができる。もし経営者が「業種や企業規模など違うんだから、平均なんて意味がありません」と株主の質問をスルーしたら、何も進歩が生まれない。平均あるいは標準と比較して改善を進めるというのは、企業経営ではフレデリック・テーラーの科学的管理法から100年以上続く、基本中の基本だ。

 

今回の老後資金については、平均を一つのモデルケースとすることで、国民は自身の収入・支出と比較でき、ライフスタイルや資産運用を改めるヒントがつかめる。まさにそういうこと狙って報告書を作成したのではないだろうか。「平均に意味がない」というのは暴論で、平均は検討の出発点として大きな意味があるのだ。

 

よく「他人のことを気にせず、自分の信じる道を進め」と言われる。たしかに、平均を見て自分を上回る他人をねたんだり、自分を下回る他人を見下すのは、生産的な発想ではない。かと言って、平均を無視して自分を無批判に肯定するというのも、まったく性質が悪い。今回の件をきっかけに、平均の重要性について、国民の認識が深まることを期待したい。

 

(2019年6月17日、日沖健)