印鑑と元号を止められない日本の行政

 

自民党は先月、行政手続きの100%オンライン化を目指す「デジタル手続法案」を党内の部会で了承した。この法案には当初、法人を設立する際に必要な印鑑の届け出の義務化を止める案が盛り込まれていた。ところが、印鑑業界の反発を受けて、結果的に印鑑の廃止は見送られた。

 

行政手続きに印鑑を使っているのは、世界中で日本・韓国・台湾だけだ。韓国・台湾では、戦前の日本統治時代に印鑑制度が導入された。この3か国以外は、サインや電子認証・生体認証である(印鑑発祥の中国もサイン)。韓国では、ハングルの画数が少なく偽造が容易であることから、2014年までに印鑑を廃止する予定だったが、印鑑業界の反発で実現していない。ただ、廃止に向けて前進しており、近く印鑑を使うのは日本と台湾だけになる。

 

印鑑の使用には、不便・不利益が多い。というより不便・不利益しか思い当たらない。まず何より、偽造の危険性が大きい。盗難や紛失も心配だ。行政や商取引においても、確認ミスが起きやすいし、事務手続きを自動化・機械化しにくく非効率だ。印鑑に象牙・牛角などを使うことには、動物愛護団体から批判がある。

 

今回、印鑑廃止が実現しなかったのは、印鑑業界からの反発とともに、印鑑廃止を求める国民の世論が盛り上がっていないという事情もありそうだ。国民の関心が薄く票にならないなら、商法・行政手続法など関連する法律を改正する面倒な作業を急ぐまでもない、と政府・自民党は判断したのだろう。

 

不便・不利益を被っている国民から印鑑廃止に向けた議論が起こらないのはなぜだろうか。いくつかの要因が考えられる。

 

まず、国民が印鑑廃止のメリットを実感しにくいという事情がある。偽造・盗難が防げると言われても、不動産売買などで実際に被害を受けたという人以外はピンとこない。行政のミスがなくなり、業務が効率化すると言われても、「役所の中の話でしょ」という受け止めになる(実際は行政サービスの向上や税負担の軽減という形で国民に恩恵が及ぶのだが)。

 

また、押印という動作が、国民に安心感を与えているかもしれない。電子認証でキーを叩くのは無機質な動作だ。指紋認証で指紋を取るのは犯罪捜査を連想させて不愉快だ。それに対し、朱肉を付けて印鑑をグイッと押す動作は、「よし俺様がちゃんと認証したぞ!」という実感を持ちやすく、安心が大好きな日本人の心理に合っている。

 

さらに、国民は日本独自の習慣である押印に対し深い愛着がありそうだ。中国から伝わった印鑑は、日本で独自の発展を遂げた。正式な認証だけでなく、会社の出勤確認、報告文書や宅配便の受領確認など、職場・家庭の様々な場面で押印する。押印がすでに生活習慣・文化として定着していることから、「わざわざ変える必要ないでしょ」となってしまう。

 

ところで、世界の中でも日本にしかない独自の制度というと、もう一つ気になるのが元号。今日、後ほど発表される新元号への対応は色々と報道されているが、行政で元号を使わないようにしようという議論はほとんどなかった。

 

元号は、印鑑以上に不便・不利益が大きい。役所が文書で元号を使っているおかげで、書類やシステムが複雑化し、行政の事務合理化が阻害されている。行政だけでなく、企業も国民も、西暦と元号を使い分ける必要があり、不便・不利益を被っている。とりわけ元号に馴染みがない外国出身者にとっては、まったく迷惑千万な制度である。

 

今回の改元は、元号使用を止める絶好の機会だったが、みすみす逃してしまった。これは、メリットを実感しにくい、デメリットがあるのは役所や外国出身者だけ(と勘違い)、定着していることを変えたくない、ということで、印鑑とよく似た問題の構図だ。

 

印鑑にせよ、元号にせよ、メリットとデメリットを比較した上で、「非合理な制度だが、日本文化を守るためにあえて維持する」というならまだわかる。しかし、デメリットを直視せず、議論すらせず、非合理な制度・習慣をなんとなく続けるというのは、残念なことだ。

 

また、グローバル化した今日、その国に独自の制度・文化を維持するには多大なコストを払う必要があるという事実も、ぜひ認識したいところである。

 

(2019年4月1日、日沖健)