格差はなぜ広がったのか

 

先日、シリコンバレーでIT企業のCEOをしている知人と久しぶりに会った。そんなに有名な会社でもないのに、彼の年収は約20億円だという。「一般のエンジニアでも5千万円くらいもらっているよ」と平然と言っていた。ニューヨークの投資銀行で働く別の知人は、一介のサラリーマンなのに2億円稼いでいる。社長になっても1億円を超えるのがやっとという日本企業と比べて、アメリカ企業の賃金はずいぶん高い印象だ。

 

ただし、アメリカでは、単純労働者の賃金は、この20年間、物価上昇分を差し引くと減少しているという。コンピューター・ロボット・AIの普及や低賃金の外国人労働者の流入で、単純労働者には賃下げ圧力が働いている。上がり続ける所得上位層と下がる下位層で格差が広がっているわけだ。

 

所得格差の拡大については、4年前にトマ・ピケティの『21世紀の資本』が話題になるなど、世界的に議論を呼んでいる。ただ、日本では「非正規雇用の増加は放置できない」「貧乏なのは努力不足、自己責任だろ」といった一方的な主張が飛び交い、生産的な議論になっていない印象だ。生産的な議論とは、まず現状を確認し、原因を整理し、それに基づき対策を考えることだ。

 

格差への対策を論じる前に、そもそもなぜ格差が広がったのだろうか。ピケティを始めとする代表的な格差論で意外と軽視されているのが、「賃金は生産性によって決まる」という労働経済学の大原則だ。

 

昔の農業社会では、生産性の格差が小さかった。ウサイン・ボルトの世界記録と日本のそこらの高校生の記録が2割も違わない通り、物理的作業の能率は個人差が小さい。能率の高い農作業者と低い農作業者の生産性は、同じ健康体なら倍も違わないだろう。

 

これが工業社会になると、生産性の格差がぐんと広がって行く。ものづくりの技能を持っている工場労働者の生産性は高まるが、技能のない労働者は技能を必要としない単純作業にしか従事できないので、生産性が低いままだ。

 

そして、知識社会になると、生産性の格差はさらに広がり、クリエーティブな仕事に関しては理論的には格差は無限大になる。能力のあるクリエーターは短時間で成果を実現できるのに対し、能力の低いクリエーターは、どんなに不眠不休で頑張っても成果を実現できない。

 

つまり、「賃金は生産性によって決まる」という原則が当てはまるなら、農業社会から工業社会、さらに知識社会と社会が変わって行くにつれて、所得格差はどんどん広がって行くことになる。良い悪いは別にして、格差の拡大は歴史の必然と言えるだろう。

 

この考察が正しいとすれば、そもそも格差は縮小させるべきものなのか、という疑問が湧いてくる。格差を縮小させるために税制などで高所得者の所得を制限すると、イノベーションを生み出して高所得を得ようという意欲が減退し、経済・社会の発展が止まってしまう。

 

もちろん、すべての国民には健康で文化的な最低限の生活を営む権利があるので、低所得者への政策的配慮は欠かせない。ただ、その財源は、高所得者だけに懲罰的に負担させるのでなく、中所得者からも広く薄く徴収するべきであろう。

 

格差を当然のことと受け止め、格差を温存して発展し続ける社会を目指すか。それとも、格差をなくして、皆で仲良く貧乏になる社会を目指すか。発展する世界からすでに取り残されている日本にとって、重大な選択である。

 

(2019年1月21日、日沖健)