諭旨退職という奇妙な慣行

 

ANA(全日空)が10月に起こした2件の不祥事によって、「諭旨退職(ゆしたいしょく、または諭旨解雇)」という聞きなれない言葉がマスメディアやネットを賑わせている。

 

ANAの杉野健治パリ支店長(52歳)は、103日パリから羽田に向かう自社便の機内で酒に酔って隣の席に乗り合わせた50代の女性客にけがを負わせた。この前代未聞の不祥事を受け、ANA105日付で杉野支店長を諭旨退職の懲戒処分にした。

 

さらに1025日、ANAグループのANAウイングスの40代男性機長が、過度の飲酒の影響で乗務予定の便に乗れなくなり、計5便に遅延が生じた。先週116日、ANAはこの機長を諭旨退職の懲戒処分にした。

 

諭旨退職とは、使用者(会社)が労働者に対して行う懲戒処分の一つで、最も重い処分である懲戒解雇に相当する程度の事由(今回のような不祥事や不正)があっても、会社の酌量で懲戒解雇より処分を軽減した解雇である。会社が強制的に処分を下すのではなく、諭旨、つまり会社が労働者を諭し、労働者が納得して解雇処分を受け入れるというものである。

 

労働者が諭旨を受け入れなかったら、会社は懲戒解雇の処分を下す。ただ、通常は、労働者が受け入れて依願退職する。依願退職なら労働者のキャリアはそれほど傷付かないし、たいていの場合、退職金が支給されるからだ(少し減額されるが)。つまり、実質的に解雇とせず、労働者に自社以外でなんとか再起してもらおう、というのが諭旨退職の意図だ。

 

諭旨退職は、労働基準法などに定められた制度ではなく、日本独特の雇用慣行である。日本以外の国で労働者が今回のような会社の信用を著しく失墜させる重大な不祥事を起こしたら、間違いなく懲戒解雇だ。アメリカなら、会社が労働者に損害賠償を請求するだろう。諭旨退職で「自分から辞めました」という形にする日本企業は、労働者に極めて温情的である。

 

逆に、労働者が成果を実現した時の報奨についても、日本企業は抑制的である。日亜化学元社員で後にノーベル物理学賞を受賞した中村修二氏で訴訟問題になったように、日本では労働者が大発明をして会社の業績を飛躍的に向上させても、ボーナスが数十万円増え、昇進が1年早まる程度だ。日本では会社に重大な損害を与えてもクビにならない代わりに、大きな貢献をしてもあまり報われない。日本企業には信賞必罰という考えがないのだ。

 

不良社員でもクビにならず会社に延々と居座る日本企業と不良社員は即刻クビになるアメリカ企業。労働者が大きな成果を出しても報われない日本企業と成果を出せば巨額の報酬が得られるアメリカ企業。競争させたらどちらが勝つか、答えは一目瞭然ではないだろうか。

 

という話をすると、よく「人を大切にする日本企業には、従業員が一丸となって働くという良さがある」という反論を受ける。たしかにそういう側面はあるが、楽しみも苦しみも皆で仲良く分かち合おうという考えは、とくに若い世代にはまったく受け入れらないだろう。

 

また、「信賞必罰では、組織の風土が殺伐としてしまう」という意見もよく聞く。これもまさしく事実だが、和気あいあいと皆で一緒に沈んでいく日本丸と殺伐とした雰囲気だが目的地に向けて力強く進むアメリカ丸、労働者はどちらの船に乗りたいだろうか。まさか日本の労働者は「俺が定年になるまで沈まなければ」と楽観的に考えているのだろうか・・・。

 

今回ANAが懲戒解雇ではなく諭旨退職にしたのは、「酔っ払っただけで、会社に損害を与えようという悪意はなかったから、大目に見てあげよう」ということだろう。ともあれ、今回のANAの措置によって、諭旨退職というなんとも奇妙な雇用慣行が市民権を獲得してしまったのは、たいへん残念なことである

 

(2018年11月12日、日沖健)