銀行はやっぱり罪深い

 

私事だが、今年社会人になって30年目になる。今年に入っての大きな変化は、同窓会のお誘いが激増したことだ。大学から現在の神奈川に住んでいるので、大学関係が集まりが多いが、地元愛知の高校・中学、はたまた小学校の集まりもある。以前勤務した石油会社の関係も含めると、何やかやと毎月2~4回、同窓会チックな集まりがある。

 

同窓会が増えたのは、私が歳をとったからだが、同時に銀行の雇用システムも影響している。私が大学を卒業した1988年はバブル真っ盛りで、多くの同窓生が当たり前のように都市銀行・証券会社など金融機関に就職した。銀行に勤める同窓生の多くはちょうど役職定年を迎え、閑職に追いやられている。出世の芽はなくなり、仕事は暇になり、金と時間はある。忙しい生活から解放されてふと「たまには昔の仲間で集まろうか」となるわけだ。

 

私は人と会うのが好きなので、時間が許せば参加する。基本的には同窓会を楽しんでいるのだが、一つ悩ましいことがある。それは、この世代の同窓会独特の「ご隠居モード」「和了り感(あがりかん)」だ。同窓会では、老後をいかに楽しく健康に過ごすかという話か、学生の頃はこんな風だったという人生の振り返りが中心になる。皆まだ会社勤めしているのに、仕事でこういう悩みがある、こういうことをやりたい、という話題にはならない。

 

セミリタイアした彼らにとっては、仕事以外に関心が向かうのは当然かもしれない。しかし、まだ普通に現役で働いている私にとって、そういう緩い話を聞いて「よし、明日もやるぞ!」という戦闘意欲が萎えてしまうのは、ちょっと困ったことだ。同窓会は、ほどほどに楽しむのが良さそうだ。

 

それにしても、同窓会で銀行(や出向先)に勤務する旧友に会うたびに、銀行はなんとも罪作りな存在だと感じる。銀行の大罪は、なんと言っても優秀な人材を大量に遊休化させてしまったことだ。

 

1988年当時「銀行員は人生の勝者、それ以外は人生の敗者」と真顔で語られていて、優秀な学生は競って長信銀や都市銀行に就職した(石油会社に進んだ私は「変人」「世捨て人」だった)。ところが、直後のバブル崩壊、1997年の金融不安、日本経済の低迷などを受けて銀行は戦線縮小し、大量の余剰人員が発生した。優秀な人材を大量にかき集め、十分に活用せず、巨大な遊休資産を作り出してしまった。

 

国家的な損害というだけでなく、銀行員にとっても、人生百年時代に50そこそこでセミリタイアというのはいかがなものだろうか。現在、民間企業の定年は60歳ないし65歳だが、近い将来70歳、75歳になる。銀行員は今は10年、将来は20年も中途半端な状態に置かれるわけだ。生活の不安はないとはいえ、勤め先から「あなたは不要です」と烙印を押されて長期間働くのは、精神的に苦痛であろう。

 

今後は、片道切符の出向をもっと増やすべきだ。銀行は人余りでも、中堅・中小企業は極度の人材不足で、銀行員を大いに歓迎する。しかもどうせやるなら、体力も意欲も落ちた50代でなく、40歳くらいで出向させるべきだ。40歳くらいになれば、銀行内でどこまで出世できそうか目星がついているし、出向先で出直す適応能力は十分にある。

 

来春の新卒採用で、みずほフィナンシャルグループは今春の約1,400人の半分の700人程度に抑えるという。三菱東京UFJ銀行も約1千人から1割減、三井住友銀行が800人から最大2割減とするらしい。みずほはつい数年前まで約2,000人採用していたから、この数年でずいぶん減った。ただ、今後ITCAIの発達で支店の人員がほぼ不要になることを考えると、「いまだに人材をかき集めているなぁ」という印象だ。

 

学生が就職先の将来性を正確に見通すのは困難だ(経営者・経営学者でも同じ)。だとすれば、将来会社がどうなっても困らないよう、出向や転職があるものと覚悟し、入社後もたゆまず能力アップに努めるしかなさそうだ。

 

(2018年8月20日、日沖健)