地元愛・地元志向は良いことなのか

 

高校野球がたけなわのこの時期、お盆が近づいていることもあり、多くの日本人が故郷のことを意識する。日本人はもともと地元愛・地元志向が強いとされるが、近年とみに地元が強調されているように思う。NHK朝ドラ「あまちゃん」の挿入歌「地元へ帰ろう」がヒットした。SNSでは地元ネタの情報交換が活発だ。政府は「地方再生」を掲げて地元志向を後押ししている。マスコミは「ケンミンSHOW」など地元愛を煽り立てている。

 

今回は、地元愛・地元志向について考えてみたい(なお「郷土」という用語もあるが、郷土には「遠く離れた故郷」「伝統」というニュアンスがあるので「地元」を用いる)。

 

まず、そもそも地元愛・地元志向とは何なのだろうか。学問的に考えると、地元愛・地元志向は、行動経済学で言う保有効果に近い認知バイアスの一種である。保有効果とは、自分が保有しているものを好きになるという思考の偏り(バイアス)だ。

 

地元での生活には、親族・知人・友人がいて居心地が良い、地域の事情に明るいので暮らしやすい、というメリットがある。一方、多くの地域、とくに地方では、就職先がない、生活インフラが整っていない、といったデメリットがある。本来、こうしたメリットとデメリットを比較するべきだが、メリットの方により着目し、人的ネットワーク・体験・生活基盤などをすでに持っているから「地元が好き」になるわけだ。

 

日本人、とくにデメリットが年々深刻化している地方の在住者は、もっと地元を離れても良さそうだが、不便を承知で地元で進学・就職することが多い。近年、進学では地元の学校に進む割合は高まっているが、就職では地元企業に就職する割合は低下している。強い地元愛があっても、働き口がなければ地元志向は現実に成り立たないということだろう。

 

「地元が好きって当然でしょ」と思うかもしれないが、そうでもない。親の跡を継いで地元に住まざるをえなかった江戸時代はともかく、選択の自由が保障された現代社会では、より良い生活を求めて地元以外を選択することが増える。多くの中国人が華僑として世界中で活躍しているのは周知の通りだ。フィリピン人もインド人も世界各地でたくましく生きている。先進国でもアメリカでは、高校卒業後は地元から離れた大学に進んで寮生活し、社会人なってからも点々と住居・職業を変えることが多い。

 

日本でも、つい一昔前まで、地元愛・地元志向は希薄だった。坂本龍馬が地元・土佐の閉鎖的な風土を嫌い、長崎に出て一旗揚げたように、幕末以降、地元を離れるのが当たり前になった。ブラジル・ハワイなどへの海外移民や東北・九州から東京・大阪への集団就職が数百万人規模で行われた。国際的にも、歴史的にも、現代の日本で地元愛・地元志向が強まっているのは、不可解な現象だ。

 

何を好きになるか、どこに住むかは個人の自由なので、個人の地元愛・地元志向を非難・否定するつもりはない。しかし、国家・社会のレベルで、地元愛・地元志向は弊害が大きい。

 

第1に、人的資源の最適配分が実現しない。たとえば、先端農業に必要なバイオテクノロジーの知識を持つAさんが都会に住み、ビル建築設計のスキルを持つBさんが田舎に住んでいるとする。普通なら、Aさんが田舎に、Bさんが都会に移り住むことで人的資源が社会的に最適化されるが(経済学で言うパレート最適)、地元志向が強いと最適化されない。

 

第2に、イノベーションが生まれにくい。シュムペーターがイノベーションの本質を「新結合の遂行」と喝破した通り、イノベーションは色々な知識・情報が融合することで生まれる。同じ場所で同じ仲間とずっと過ごすのと世界各国から多種多様な人材が集まるシリコンバレーで、どちらがイノベーションが生まれやすいか、改めて言うまでもないだろう。

 

第3に、地方の衰退に拍車をかける。地方の企業は、地元で生活する人の消費需要、地元で働く人の労働供給を見込めるので、経営努力しなくても商品が売れ、労働者を確保できる。短期的には経営が安定するが、競争して腕を磨くことも、競争に敗れて淘汰されることも少ない。地方では競争力のないゾンビ企業ばかりになり、長期的に経済は衰退する。

 

このように、日本で地元愛・地元志向が強まっているのは、極めて危険な傾向である。少なくとも政府は、地元愛・地元志向を政策的に後押しするのを慎むべきであろう。

 

(2018年8月6日、日沖健)