先駆者が扉を開く効果

 

陸上の男子100メートルで、今月9日、桐生祥秀(東洋大)が日本人初の10秒突破となる9.98秒の日本新記録を出した。その興奮冷めやらぬ昨日24日、ライバルの山県亮太(セイコー)が10・00秒の日本歴代2位を出した。10.00というタイムは、伊東浩司が1998年に出し、桐生が破るまで長く続いた日本記録と同タイムである。

 

ロンドンオリンピックの男子100×4リレーでは、1人も9秒台がいないメンバー構成で見事に銀メダルを獲得した。その後、個々人のレベルアップが進んでおり、東京オリンピックでは男子100メートルを含めて一層の活躍が期待できそうだ。

 

ところで、桐生に続きすぐさま山県が快記録を出したのは偶然だろうか。山県は9日に桐生が日本記録を出した時、桐生に祝福のメッセージを送っており、桐生は9秒台突入を争ってきたライバルからの祝福に「涙が出そうになった」という。今回、山県が桐生の快挙に大いに刺激を受け、「俺にもできる」と考えたことがプラスに作用しているに違いない。

 

スポーツというと、運動能力がものを言うと考えがちだ。しかし、「俺にもできる」という心理面が記録に大きく影響するらしい。

 

これは日本だけの現象ではない。現在、男子短距離で圧倒的な強さを誇るジャマイカでも、同じことが起きている。

 

1990年代まで男子短距離はアメリカの独壇場で、ジャマイカはあまり目立たない存在だった。ところが、2001年までサッカー選手だったアサファ・パウエルが2004年に初めて10秒の壁を破り、翌2005年に9.77秒の世界記録を樹立した。すると、「俺にもできる」ということで、ジャマイカ国内に10秒を切るスプリンターが続々と出現した。そして、その中からウサイン・ボルトが現れ、今では世界一の短距離王国になっている。

 

先駆者が扉を開くと、周りの人々の心理的な壁が取り払われ、「俺にもできる」と後続者が次々に現れる。この心理的な効果が大きいのは、スポーツよりむしろ、心理面が重要な人文・社会・芸術といった分野であろう。近年、日本人がノーベル生理学賞を立て続けに受賞しているのは、この現象と考えられる。

 

今後ということで言うと、足元で注目されるのは、女性政治家だ。日本の国会議員に占める女性の割合は、先進国で最低水準にある。次回の衆院選で希望の党が躍進し、小池百合子東京都知事が将来首相の座に就き、「私にもできる」と女性政治家が一気に増えるかどうか、大いに注目される。

 

それよりも個人的に期待しているのは、世の中を大きく変える本格的な起業家の出現である。日本は、起業家の数が非常に少ない上、ゲーム・介護・飲食といった分野での小粒な起業が中心である。マイクロソフトのビル・ゲイツ、グーグルのラリー・ペイジ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグらが世界を変えたアメリカとは比べるべくもない状況だ。

 

ただ、日本人の学力やビジネススキルは世界一の水準にある通り、基本的な素養は持っている。あとは「俺にもできる」と思える先駆者が現れるかどうかだ。

 

もちろん、以上は、鶏が先か卵が先か、という話で、扉を開く最初の1人を輩出するのが難しい。秘策はないが、以下の2点は最低限必要である。

 

一つは、教育システムの改革。アメリカではスタンフォード大学やバブソン大学が起業家養成で実績を上げている。日本でも、官僚や大企業サラリーマン養成に偏った教育システムの改革が急務だ。

 

もう一つは、起業家を見る世論の変革。日本では、起業家が少し成功すると、称賛されるどころか、「うまいことやりやがって」「汚い手を使ったに違いない」といった妬み・批判の対象になってしまう。まずは起業家が憧れの対象になるように世論を変えないと、起業に挑戦する若者が増えない。

 

男子短距離では、東京オリンピックをにらんだ長年の強化が今回、実を結んだと言われる。男子短距離という先駆者を見て、他の分野も後に続くことを期待したい。

 

(日沖健、2017年9月25日)