賃金の上方硬直性

 

デフレ脱却を目指して2012年に始まったアベノミクス。2年以内に物価上昇率を2%に引き上げる目標だった。しかし、世界的に見ても空前の規模の金融緩和を続けているのに、なかなか物価は上がらず、1%未満の状態が続いている(7月の全国消費者物価指数は前年同月比0.5%上昇)。

 

個人的には、物価上昇は日本経済にマイナス面が大きいと思っているが、それはともかく、これだけ死に物狂いで物価上昇に取り組んでも実現しないのは、非常に不思議な現象だ。

 

当初は「金融緩和の規模が小さいからだ」と言われたが、規模を拡大しても事態は変わらなかった。その次は、2014年4月の消費税率引き上げによる個人消費の低迷が犯人扱いされた。しかし、増税から3年経っても変化がなく、「ちょっと待てよ」という話になった。最近は、「デフレは金融現象」というリフレ派の主張は説得力を失い、物価上昇を妨げる構造変化が起きているのではないか、と疑われるようになっている。

 

その構造変化とは、「賃金の上方硬直性」である。ケインズ経済学の中心的な概念に「賃金の下方硬直性」がある。景気が悪化して労働需要が減ったら、理屈の上では賃金が下落するはずなのに、労働組合の圧力や最低賃金規制のために下がらないという現象だ。それに対し、いま日本で、そして世界で起きているのは、好景気で労働需要が増えても賃金が上がらないという「賃金の上方硬直性」である。

 

伝統的な経済学の教科書によると、失業率が低下すると少し間をおいて賃金が上昇する。しかし、日本では、失業率は2.8%まで下がり(6月労働力調査)、全国から人手不足の悲鳴が上がっているのに、賃金上昇率は前年比0.6%増とほぼ横ばいだ(2016年・毎月勤労統計調査、従業員500人以上)。

 

日本だけではない。アメリカでも、好景気を反映して失業率は4.3%と事実上、完全雇用になっているが、平均時給はこのところ前月比0.2%ないし0.3%増とほとんど上がっていない。データの上では、先進国で「賃金の上方硬直性」が確かめられている。

 

問題は、これを一時的な現象と見るか、構造変化と見るかだ。政府は常々「景気は堅調で、失業率が下がったから、もうすぐ賃金上昇が加速する」と表明しており、一時的な現象という見解だ。しかし、個人的には今後何十年も世界的に続く構造変化だと思う。

 

構造変化だと考える理由は2つある。一つは、単純労働に外国人労働者が参入していることだ。東京都内のコンビニエンスストアや飲食店では、当たり前のように中国人・ベトナム人の留学生が働いている。少子化で日本人の人手が足りなくても、外国人のお陰でそれほど深刻な事態にはならない。やがてロボットが普及すると、この傾向はさらに顕著になるだろう。

 

もう一つ、知識労働がAIに置き換わりつつあることだ。つい最近まで、単純労働の賃金は上がらないものの、難易度・付加価値の高い知識労働の賃金は上がり続けると思われていた。ところが、AIの実用が急速に視野に入ってきて、会計士・弁護士など多くの知識労働者が近い将来AIに代替される。知識労働も「賃金の上方硬直性」の聖域でなくなろうとしている。

 

さらに付け加えるなら、日本では数少ない成長セクターで雇用吸収力が大きい介護市場は、極度の低賃金である上、介護報酬が制度的に低く抑えられていることも、賃金の上昇を抑えている。

 

外国人労働者の増加もロボットやAIの普及も、流れを止めるのは困難だし、止めてしまえばマイナスが大きい。よって、賃金の上方硬直性は今後も続く現象と考えられる。

 

以上の考察が正しいとすれば、日本が取るべき政策は、規制緩和と人材育成で外国人労働者・ロボット・AIに代替されないイノベーティブな仕事とイノベーティブな労働者を増やすことだ。ピント外れの働き方改革(実態は「働かないように改革」)や地方創生に予算・時間・労力を費やす余裕は日本にないと思うのである。

 

(日沖健、2017年8月28日)