弱者の論理にどこまで耳を傾けるべきか

 

先日、久しぶりに高校野球を見たら、NHKの放送画面にピッチャーの投球数がリアルタイムで表示されていた。投球数の表示はWBCの放送ですっかりお馴染みになったが、NHKは今春のセンバツから表示を始めたらしい。

 

WBCでは、投手の消耗や怪我の危険性を考慮し、1試合の投球数が制限されていた。その他の国際大会でも、投球数制限を設定することが増えている。本場アメリカでは、大リーグでは各チームが投球数を100球以下に管理しているし、リトルリーグではもっと厳格な制限があるという。

 

それに対し日本では、高校でもプロでも投球数制限は一切ない。プロの選手の場合、すでに体ができているし、野球で生計を立てているから、「どれだけ投げても本人の自由」という理屈も成り立つ。しかし、まだ投手の体ができていない上、投手(生徒)が監督(先生)の命令を拒否できない高校生の場合、投手本人や各チームの判断に任せるのは不適切ではないだろうか。大会を主催する日本高等学校野球連盟(高野連)が責任を持って投球数を制限するべきだと思う。

 

この話題になると、必ず「死んでも良いから投げたいという高校生の純粋な気持ちを汲んでやれ」「高校野球のドラマがなくなる」といった感情論が出てくる。その正否はともかくとして、高野連が投球数制限の導入に後ろ向きなのは、おそらく感情論というより、投球数制限に加盟各校が対応できず、チーム数が激減する事態を恐れているのではないだろうか。

 

80球とか投球数制限を導入すると、1試合に2人以上の投手が必要になる。連投を禁止したら、さらにたくさんの投手が必要だ。少子化の影響で、ごく一握りの有力校を除いて、各校とも部員数の減少が深刻になっている。そこに投球数制限や連投禁止が追い打ちかけると、部員数不足でチーム数が激減するだろう。高野連は、高校野球の衰退に拍車を掛けないよう、議論そのものを避けている。「弱小チームの事情に配慮せよ」という“弱者の論理”が高校野球界を支配しているわけだ。

 

高校野球だけでなく、日本では色々な場面で弱者の論理が幅を利かせている。

 

たとえば、世界的に受動喫煙対策が求められるようになっていることを受け、日本でも東京オリンピックに向けて受動喫煙防止法の規制を強化し、建物内禁煙にする見通しだ。ところが、面積が30平方メートル以下の小規模飲食店は規制対象外とすることになった。喫煙客の減少を懸念する中小飲食店から猛反発を受け、政府は方針を変えた。

 

国民の8割以上を占める非喫煙者の目線で考えると、分煙や喫煙室の設置が可能な大型飲食店を規制対象外にするのならわかるが、店内に逃げ場がない中小飲食店こそ全面禁煙を徹底してほしいところである。中小飲食店の「客が減って店が潰れたら一体どうしてくれるんだ」という反発は、典型的な弱者の論理だ。

 

「弱者の声に耳を傾けることこそ業界団体や政府の役割ではないか」「弱者を救うのは当然のことだ」という意見がある。たしかにそれも一つの考え方だが、私が問題だと思うのは、日本では弱者救済に伴うデメリットやコストのことがすっかり忘れ去られていることだ。

 

弱小高校野球チームを存続させるために、投げまくる投手が体を壊すのは考えないでおこう。零細飲食店に事業を続けてもらうために受動喫煙の問題には目をつむってもらおう。日本では、メリットとデメリットを客観的に検証することなく、弱者の論理だけを無条件に受け入れている。

 

アメリカというと、個人の権利が何より重視されると考えがちだが、意外とそうでもない。公共事業のための土地収用では、住民がゴネても有無を言わさず強制執行される。成田空港が三里塚闘争のため1978年の開港から40年近く経っても用地買収が完了していない日本とは、大違いだ。おそらく日本は、先進国で最も弱者の論理に耳を傾ける国ではないだろうか。

 

弱者の論理に振り回されて、日本は莫大なコストを払っている。国家財政が困窮している今、必要な弱者救済と不要な弱者救済をしっかり見極め、対処するべきだと思う。そのためにはまず、当然とされている弱者救済を社会政策全体の中でどう位置付けるべきかという根本的な議論が必要だ。

 

(日沖健、2017年4月17日)