一昨日、明治大学生田キャンパス内にある旧陸軍登戸研究所の資料館を見学した。登戸研究所は、中野学校や満州の731部隊などとともに陸軍の秘密戦(防諜・諜報・謀略・宣伝)を担ったが、その活動は戦後長くヴェールに包まれ、資料館ができたのは2010年である。月2回行われるガイドツアーは、無料なのに非常に充実した内容である。歴史ファンのみならず、未来を担う若い人たちにぜひ見学を勧めたい。
実際に足を運んで目で見ていただくのがベストなのだが、今回、登戸研究所で私が感じたことを2つ紹介しよう。
まず、改めて戦争の異常さについて考えせられた。
登戸研究所は、1943年に秘密戦の功績で東条首相から副賞1万円(現在の価値で約1000万円)を授与された。その1万円を投じて、実験に使う動物の霊を慰めるために、高さ3メートルの立派な動物慰霊碑を建立した(キャンパス内に現存する)。自分たちの成果は、尊い命を捧げてくれた動物たちのお蔭だと考えたのだろう。
一方、研究所の幹部だった伴繁雄氏は、731部隊と共同で中国で行った人体実験について、戦後「初めは嫌であったが、(薬の効き目がわかるので)慣れると一つの趣味になった」と述懐している。
登戸研究所に動物実験の慰霊碑はあるが、人体実験の慰霊碑はない。伴繁雄氏や登戸研究所に対しては、「人命は動物の命に劣るのか!」という批判があろう。ただ、戦争という異常事態が、動物を愛する心優しい人たちの人間性を破壊してしまったことは疑いない。戦争の悲惨さというと、戦いで命を落とした犠牲者をまず想起するが、人間性をあっさりと破壊されてしまうことも大いなる悲劇だ。
登戸研究所というと、やはり有名なのは風船爆弾、そして偽造紙幣である。この2つについて、コンサルタントとして技術と戦略のバランスという問題を考えさせられた。
風船爆弾は、和紙をコンニャク糊で貼り合わせて作ったことから、今日、原子爆弾と対比して物笑いの種である。しかし、実際は、日本国内で調達できる素材を使って、日本の技術と知恵を結集して開発した画期的な新兵器だった。とくに、夜間の気温低下によって気球が収縮して高度が下がるという難問を高度維持装置の働きであらかじめ搭載された砂袋を自動的に落下させて回復するという新技術で解決したのは、日本のモノづくりの神髄を感じさせる。
中国経済を混乱させるために行われた偽造紙幣の開発も興味深い。戦前、中国はアメリカ・イギリスの協力で全国共通紙幣を導入したので、偽札を作るには、米英の紙幣製造技術にキャッチアップする必要があった。登戸研究所は、巴川製紙らメーカーや印刷職人と協力して、わずか1年で透かしなどの技術開発を進め、本物とまったく遜色ない偽造紙幣を作り上げた。
しかし、風船爆弾も偽造紙幣も、戦略という点では大いに問題があった。
登戸研究所は、アメリカ本土に到達する気球を開発したが、どういう兵器を搭載するかが課題だった。砂袋を大量に積む関係上、重たい爆弾を載せられない。家畜を殺傷する生物兵器を搭載する計画があったが、アメリカの報復を恐れる陸軍中央の判断で見送られた。結局、やむなく焼夷弾を載せた風船爆弾を発射したが、戦果はほぼゼロだった。米国本土を直接攻撃する手段を持ったという点でアメリカに対し一定の心理的圧力にはなったものの、最後まで戦略の意図は不明確なままだった。
偽造紙幣も、完ぺきに近いものを作ったが、インフレで中国経済を混乱させるという戦略目的は達成できなかった。中国が戦費調達のために大量の紙幣を流通させたことで、日本の偽札は通貨流通量全体の1%未満にとどまったためだ。結局、巨額の研究開発費を投じて開発した偽札は、中国国内での物資の購入に使用され、児玉誉士夫ら政商を増長させただけだった。こちらも、戦略の目的は揺れ動いた。
登戸研究所の技術のスゴさは、戦後、伴繁雄氏ら多くの研究者が破格の待遇でアメリカ軍に引き抜かれたことで証明されている。しかし、技術を活かして成果に結び付ける戦略は不在で、大きな戦果を上げることはできなかった。
技術と戦略の片一方ではだめで、高度にバランスを保つ必要がある。ただ「技術は一流、戦略は三流」というアンバランスは、残念ながら、現代企業に脈々と受け継がれている。本日、戦後71年目を迎えたが、戦争を遠い昔の物語で終わらせず、自分たちを謙虚に見つめなおすきっかけにしたいものである。
(日沖健、2016年8月15日)