格差は悪いことなのか?

 

一昨年、ピケティ著『21世紀の資本』をきっかけに格差を巡る議論が世界的に盛り上がった。今年も、パナマ文書の発覚で、税金逃れに奔走する富裕層の強欲さが批判の的になっている。アメリカ大統領戦では、格差是正を訴えるサンダース候補が健闘している。日本では、正社員と非正規社員の賃金格差を埋めるために「同一労働同一賃金」の推進が叫ばれている。

 

こうした格差論議では、ほぼ例外なく「格差は悪いこと」という前提が置かれている。しかし、本当にそうだろうか。

 

たしかに、古くはマルクスやエンゲルス、最近ではピケティが主張するように、資本を持つ者がますます富み、持たざる労働者が没落するというなら、格差は大いに問題だ。私事だが、近所に30歳くらいで仕事を辞め、親から譲り受けた数棟のアパートの賃貸収入で豊かな生活をしている家庭がある。平日の昼間から親子でキャッチボールをして戯れている様子を見ると、「格差は許せん!」と思う。

 

ただ、先進国は相続税が高いので、先祖・親から譲り受けた遺産で悠々生活しているストックリッチは限られる。とくに日本では、戦後のインフレや財閥解体などで伝統的な資産家は没落しており、超富裕層というとファーストリテイリングの柳井正社長や楽天の三木谷浩史会長のように、一代でビッグビジネスを築き上げた経営者だ(柳井氏は正確には2代目)。ネット掲示板では、柳井氏や三木谷氏はすっかり“悪役レスラー”だが、努力して財産を築き上げた成功者が非難されるのは、気の毒な気がする。

 

ところで、今日、日本で問題となっているのは、ストックの格差よりもフロー(所得)の格差の方である。経営者や専門家・芸能人が数千万円、数億円の年収を稼いで豊かな生活をエンジョイしている一方、2000万人に達する非正規労働者の大半は、年収200万円以下でぎりぎりの生活をしている。

 

日本における所得格差の議論では、決まって正規か非正規か、という雇用形態の違いがクローズアップされる。まったく同じ仕事をしながら雇用形態の違いによって大きな賃金格差が生まれるのは理不尽で、対策が急がれるところだ。

 

しかし、年収1億円プレイヤーと年収200万円のワーキングプアの格差は、勤務形態の違いによるものではないだろう。勤務形態の影響も若干はあるが、大部分は生産性の違いによるものだ。企業はバカではないから、生産性の高い労働者には高い給料を払うが、生産性の低い労働者には低い給料しか払わない。日本の所得格差が大きいのかどうかについては議論があるところだが、いずれにせよ、所得格差の原因は明らかに生産性の格差である。

 

ここで注意しなければならないのは、経済構造の転換に従って、労働者の生産性の格差が拡大していることだ。農業社会や初期の工業社会では、労働者は決められた内容・手順の物理的な作業をこなすだけなので、生産性の格差は小さかった。体力があって手際の良い“できる農作業者”と“とろ臭い農作業者”の生産性の格差は、せいぜい数倍だった。ところが、工業社会が発達すると作業内容・手順が複雑化し、技能の違いによる生産性の格差が拡がっていく。

 

さらに知識社会になると、生産性の違いは絶望的に大きくなる。クリエイティブな労働者は、短時間で斬新な知識を生み出すことができる一方、能力の低い労働者は、どんなに頑張って深夜残業しても知識を生み出せない。知識社会では、生産性の格差は無限大であり、理論的には所得は無限に違って良いということになる。

 

つまり、知識社会である現代の所得格差は、生産性の格差を反映した結果であり、それ自体は決して悪いことではない。むしろ、生産性の違いを無視してクリエイティブな労働者の報酬を低く抑え込むと、優秀な労働者を確保できなくなる。国家レベルでは、悪平等の日本から不平等社会の米国などへと人材が流出してしまうだろう。

 

以上から、次のような結論になる。まず、一口にストックリッチといっても、遺産を譲り受けた者と高い報酬を得て蓄積した者を明確に区別する必要がある。前者は問題だが、後者は問題ない。フローリッチについては、規制に守られたり、不正を働いたりして高額の報酬を得ている者は問題だが、大きな成果を上げて高額の報酬を得るのは当然のことだ。問題どころか、企業や国家を発展させる上でこういう格差は非常に好ましい。大局的に見ると、格差は好ましいことである。

 

もちろん、すべての国民が健康で文化的な生活をする権利があるから、低所得者への対策を進める必要がある。しかし、「低所得者を保護すべき」が「高所得者はけしからん」「格差はけしからん」という主張にすり替わっている日本の議論は、企業経営、ひいては国家の将来を誤らせてしまうと思うのである。

 

(日沖健、2016年5月23日)