健康管理は自己責任か?

 

新春恒例の箱根駅伝が昨日・今日行われた。今年は青山学院大学が39大会ぶりの完全優勝で、圧巻の走りがお茶の間のファンを楽しませた。

 

ところで、箱根駅伝は今や日本を代表する人気スポーツになった一方、様々な批判がある。「関東の地方大会に過ぎないのに、日テレはバカ騒ぎし過ぎだ」「箱根で燃え尽きてしまい、長距離選手の強化が進まない」という意見をよく耳にする。

 

とりわけ検討を要するのが、選手の健康管理だ。「箱根に出たい!」の一心で怪我や体調不良を隠して無理して出場し、途中棄権してしまう選手が後を絶たない。また、ハイライトの往路5区の山登りは非常に過酷で、選手生命を縮めてしまう危険性が指摘されている。

 

スポーツ選手の健康管理と言うと、一昨年、高校野球の投球数が問題になった。愛媛・済美高校の安楽投手が春の甲子園で772球も投げたことは、アメリカの雑誌・テレビで大きく紹介され、世界的な注目を集めた。

 

箱根駅伝や高校野球で選手の健康管理を問題視する意見に対し、ネット世論は概ね否定的だ。「死んでもやりたいという選手の純粋な気持ちを否定するな」「自分の体は自分で管理できる。余計なお世話」という意見が目立つ。ともに人気スポーツなので、自分たちの愛するものにケチを付けられたことへの反感があろうが、それにしても「健康管理は自己責任」という意見が多いことには驚く。

 

近年アメリカでは、遠い日本の高校生投手の問題が大々的に取り上げられたことに象徴されるように、選手の健康はチームや競技団体が責任を持って厳格に管理するべき、という考え方が浸透・定着している。今年11月、アメリカ・サッカー協会は10歳以下の少年サッカー選手のヘディングを禁止する措置を発表し、世界を驚かせた。

 

以前の日本では、スポーツだけでなく社会的にも、自己責任という考え方がなかった。村社会で、村長が村民の面倒を見て、困ったときはお互いに助け合い、誰かがミスをしたら連帯で責任を取るのが一般的だった。本来、経済合理的に運営されるべき企業でも同様だった。

 

ところが、1990年代にグローバル化が進み、アメリカ式の個人主義的な考え方として自己責任論が浸透した。スポーツの世界では、元祖のアメリカで自己責任論が後退し、日本で自己責任論が流行するという逆転現象が起きており、興味深いところだ。

 

個人的には、良いことも悪いことも自己責任とする考え方は大好きだ。国民の教育水準が低い社会では国・自治体が国民の面倒を見るべきかもしれないが、成熟した社会では自己責任を基本にするべきだと思う。

 

ただし、日本の自己責任論には首を傾げる面がある。

 

一つは、高校球児のような未成年にまで自己責任を求めていることだ。自己責任は、冷静な判断力と責任能力があって成り立つ話で、基本的には未成年や学生は対象外とするべきではないだろうか。

 

それよりも個人的に残念に思うのは、失敗した者には自己責任を厳しく追及するのに、成功者に対する共感・称賛がほとんどないという点だ。

 

シリアに入国してISに拘束されたジャーナリストの安田純平氏について、ネットでは「自己責任だ」「身代金を支払ってまで救出する必要なし」という意見が噴出している。日本の世論は、失敗した者には非常に手厳しい。

 

それは一つの理屈として理解できるが、それならば逆に、努力してリスクを取って事業を成功した者をもっと称賛するべきだ。ところが、楽天の三木谷浩史氏やファーストリテイリングの柳井正氏のような成功者に対し、ネットでは、「運が良かっただけだ」「自分の利益だけ考える強欲者だ」といった批判が目立ち、自己責任で成功したことはほとんど無視されている。

 

自己責任論をどう捉えるかは、社会の基本構造と大いに関連する。日本では一見、自己責任論が浸透しつつあるように見えるが、成功者への拒否反応を見ると、自己責任論に徹しきれていない状態だ。「ゲマインシャフト(共同社会)からゲゼルシャフト(利益社会)へ」というテンニエスが提示した社会学の基本命題が当てはまるのか、どちらでもない中途半端な状態が続くのか、日本社会の今後に大いに注目したい。

 

(日沖健、2016年1月4日)