絆はなぜ大切なのか?

大手企業の幹部候補を対象にした研修の講師を担当する機会をたくさんいただいている。そういう場で、よく「絆を大切にしてください」と受講者に伝える。ただ伝えるだけでは「この講師は東北出身なのかな?」とスルーされてしまうので、意図するところを少し理屈っぽく説明する。

ゲーリー・ベッカーの人的資本理論によると、労働者の能力は一般能力と企業特殊能力に分類できる。一般能力とは、PCの操作や語学のように、どの企業においても有用なスキルである。企業特殊能力とは、その企業独自のノウハウや社内の人的ネットワークなど、その企業でしか必要とされないスキルである。

一般能力は、オペレーションを遂行する上で必要であるが、金さえ払えば労働市場から調達できるので、企業が他社と差別化する要因にはならない。競争戦略上重要な意味を持つのは、企業特殊能力の方である。トヨタのモノづくりのノウハウなどが典型例だ。

労働者は、学校か入社後の初期段階では、オペレーションを遂行するためにまず一般能力を習得する。そして、経験を積み、高度な仕事を担当するようになると、徐々に企業特殊能力が蓄積されるようになる。やがて幹部クラスになると、能力の大半を企業特殊能力が占めるようになる。

企業特殊能力にも色々なものがあるが、中でも大切なのが、人的ネットワークである。どんなに優秀な経営者・マネジャーでも、自分一人でできることには限りがある。大きな仕事・複雑な仕事を進めるには、色々な専門性を持った人材を幅広く集め、コーディネートし、知恵を出し合って協力して活動する必要がある。こうした協働を進めるには、経営者・マネジャーは社内のどの部署にいる誰がどういうノウハウを持っているのかを知ることが大切だ。ダニエル・ウェグナ―が唱えた交換記憶(transactive memory)である。

つまり、優れた経営者・マネジャーになるには、自分自身の知識・スキルを高めるのもさることながら、交換記憶を増やす必要があるということだ。ジョン・コッターの研究によると、優秀な経営者は、社内外の色々な人と会って他愛もない雑談をして関係づくりをすることに執務時間の相当部分を費やしているという。

と絆の大切さを説明したあと、研修の受講者には2つのことをお願いする。

一つは、研修開始時に「休憩時間・昼食時間には、できるだけ周りの人と雑談してください」。最近はどの企業も管理職の業務負荷が増えているようで、休憩時間には寸暇を惜しんで携帯やPCで業務処理に勤しむ受講者が多い。しかし、リーダーたるもの、研修前にきちんと業務を終わらせるか、部下に仕事を任せておくなりして、研修中はゆったりとした気持ちで、学習とネットワークづくりに専念して欲しいものである。

もう一つは、研修終了時に「これからも、メンバーで集まったり、情報交換するなど、絆を深めてください」。研修の時間中は良い関係づくりができても、職場に戻ると日常業務に忙殺されて、せっかく構築したネットワークのことを忘れてしまう。ネットワークは、実際に活用して大きな意味を持つ。「半年後もう一度集まろう」といった話に発展することを期待する(もちろん強制はできないが)。

研修の短い時間の中で受講者に伝えられることには限りがある。研修の限界を講師として痛感することは多い。では、研修が全く役に立たないかというと、相ではないだろう。研修、とくに幹部クラスに実施する研修の価値は、日常業務では得られない色々な知識・視点を知って、「よし、もっと勉強しよう」と思うこと、そして、社内のネットワークを気付くことである。

経営者や教育担当者は、改めて研修の価値について考えてほしいものである。

(日沖健、2015年10月26日)