賃金の下方硬直性

 

早いもので、安倍政権が発足して2年になろうとしている。アベノミクスでデフレから脱却し、円高が是正され、大手製造業を中心に企業収益は持ち直した。この部分はかなり順調である。逆に、あまりうまく行っていないのは、輸出や賃金・消費の回復、そしてまったく手付かずなのが、社会保障改革などによる財政再建である。

 

ほとんど眼中にない社会保障改革はともかく、安倍政権にとってここまで想定外だったのは、一つは、円安でも輸出が伸びていないこと、もう一つは消費や賃金が回復していないことであろう。

 

輸出については、「円安でいずれタイムラグがあって回復する」というJカーブ効果が繰り返し言われた。しかし、過去の円高局面で製造業が海外移転をすでに進めてしまったので、円安による大幅な輸出増はもう期待できない。貿易収支が黒字にならない中、どうやって稼ぐのか、稼げないなら国債をどう消化していくか、という深刻な問題が待ち受けている。

 

もう一つの消費・賃金が回復しないことについても、「企業は収益が上がったことを確認して賃上げをするので、賃上げは一番後だ。いずれ賃金が上がり、賃金が上がれば消費も持ち直す」と言われた。たしかに給与支給額は少し増えているが、物価上昇を加味した実質賃金は減少傾向が続いており、消費への波及は見えてこない。

 

今回は、今後賃金は上がるのか、という素朴な疑問について考えてみよう。

 

結論的には、ボーナスや残業代を中心に支給額は多少増えるが、物価上昇によって実質賃金は低下する、というこれまでの構図は大きく変わらないように思う。

 

総務省が先月末に発表した8月の完全失業率は3.5%で、すでに完全雇用に近い状態まで労働需給がひっ迫している。にもかかわらず、なかなか給与が上がらないのは、企業が基本給のベースアップに慎重になっているからだ。

 

成果配分であるボーナスや雇用量の調整である残業代は、経営状況によって減らしたり増やしたりできる。それに対し、基本給は上げることはできても、不況だからといって簡単に減らすことはできない。ケインズ経済学で言う「賃金の下方硬直性」だ。一般の財は、供給過剰なら値段が下がり、供給不足なら値段が上がる。ところが、組合の影響力や最低賃金制度がある労働は、こうした市場原理が働きにくい。

 

経済学の世界では、賃金の下方硬直性が存在するか、しないかでケインズ学派と新古典派の論争が続いている。しかし、企業経営者の実感としては、ケインズ学派の方が説得力ある。経営者は、いったん基本給を上げたら簡単に下げられないと熟知している。だから、好況時にはボーナスや残業代の増額、あるいは非正規雇用で対応し、できるだけ基本給を増やさないように努める。

 

安倍首相は、今年の春闘で企業に賃上げを要請した。連合は、来年の春闘で2%以上のベースアップを要求する方針のようだ。しかし、ずっと好景気が続くわけではないので、経営者から見たらこれはかなり酷な要求だ。

 

政府が本当に企業に賃上げをして欲しいと願うなら、賃金の下方硬直性を緩和し、賃金においても市場原理が働くよう規制緩和や制度改正に取り組むべきだ。労働も市場で取引される財の一つなので、市場原理を歪める無駄な規制・制度がなければ、市場原理が機能するようになるはずだ。政府は、賃金の下方硬直性に繋がっている以下の諸制度を抜本的に見直す必要がある。

 

一つは、最低賃金制度である。全国各地で、単純労働者の生産性や生活保護の水準を無視した高い水準に最低賃金が設定されており、賃金の下方硬直性に直結している。もう一つは、社会保険や退職金といったフリンジベネフィットである。社会保険や退職金は基本給をベースに決まるので、基本給の賃下げに労働者・組合が猛反発する。

 

最低賃金制度を撤廃する、あるいは実態に合わせて引き下げる、社会保険や退職金を基本給と切り離す、といった制度改革が進めば、経営者は賃金の下方硬直性を心配する必要がなくなり、安心して雇用を増やすことができる。雇用が増え、生産活動も活発になり、結果的に国民全体の賃金総額は増えることだろう。賃金の下方硬直性を改めるというと、労働者にとって不利な改革だと思うかもしれないが、まったく逆の効果が期待できる。

 

多くの国際機関が指摘するように、日本の労働市場・慣行が硬直的で、日本経済の成長を阻んでいるというのは、もはや常識と言っていい。政府の思い切った対策を期待したい。

 

(日沖健、2014年10月20日)