大学の序列は変わるか

 

先月公表された全国学力テストの結果が注目を集めている。万年最下位だった沖縄県が躍進したことや静岡県で上位校の名前を公表して成果を上げたことなど、各地の取り組みが話題になっている。一方、教育の現場からは「テスト結果の公表は、過度な競争を生むので好ましくない」といった意見があるようだ。

 

テスト結果を公表すると、結果に応じた序列ができ、序列を上げようと競争が起きる。沖縄県や静岡県だけでなく、全国の小学校が発奮して子供の学力が底上げされたのを見ると、序列化・競争を悪とする批判は説得力に欠ける。弊害がないとは言わないが、基本的に序列化・競争は良いことであり、序列化・競争を基本に弊害を少なくするように考えていくべきであろう。

 

今回、全国学力テストで、全国各地の小学校の序列が大きく変動した。また、かつて「3大予備校」の一つに数えられた代々木ゼミナールの大リストラが波紋を呼んでいる通り、予備校の序列も大きく変わった。私事になるが、30年前に私が卒業した高校は、当時、愛知県内有数の進学校だったが、今ではごく平均的な学校になっている。高校の序列も大きく変わるようだ。

 

それに対し大学は、明治時代から百年以上に渡って、東大を頂点とする序列にほとんど変化がない。これは、日本だけでなく、世界的に見られる現象だ。日本では立命館アジア、アメリカではスタンフォード大学のように、新設校の成功例は少数あるが、既存校の序列は、恐ろしいほど変わらない。

 

大学の序列が変わらない状況と理由については、野口悠紀雄が『アメリカ型成功者の物語』で日米の分析をしている。要は、大学の序列は社会の評判で決まるので、ある大学が初期段階で成功し、「良い大学」というブランドを確立すると、「悪い大学」という負のブランドを持った大学が後からそれを覆すのはなかなか難しいということだろう。

 

小学校では、全国学力テストで競争が起き、底上げが進んだ。予備校ではWeb授業に注力した東進ハイスクールが伸びているように、生徒獲得を巡る競争で教育が進化している。序列が変わったというのは、激しい競争が生まれ、進化した者がのし上がり、進化できなかった者が敗れ去ったということだ。

 

逆に、大学の序列が変わらないというのは、大学では競争が不十分で、あまり進化していないことを意味する。たしかに、立命館アジアのほか、高知工科大・北陸先端科学技術大のような新設校は、非常に意欲的な取り組みをしている。しかし、東大・京大・早稲田・慶応といった伝統校は、伝統とブランドにあぐらを掻いて、教育内容や社会との関わりなど、何十年も変化していない。「下手なことをして、ブランドを傷つけても仕方ない」ということだろう。

 

ここで不思議なのは、アメリカだ。アメリカでも、日本と同じく大学の序列に変化はないが、MITが授業内容をWebで無償公開するなど、伝統ある上位校が必死に改革に取り組んでいる。

 

おそらく、序列の付け方が日本とは違って競争を促す仕組みになっているからだろう。日本では、大学の序列というと、入学時の偏差値である。つまり、頭の良い高校生を引き寄せられるかどうかが勝負で、概ね評判・ブランドで決まる。したがって、上位校は、不祥事などブランド価値を毀損するようなヘマをしない限り、序列を維持できる。逆に下位校が評判を変え、ランクを上げるというのは、至難の業だ。

 

アメリカでは、入試の偏差値は数ある評価指標の一つに過ぎない。学習内容、学生の多様性、研究成果など、色々な指標で多面的に評価される。社会人が通う経営大学院であるMBAの場合、入学前にサラリーと卒業後の就職先のサラリーの差が重要な指標だ。そして、色々な新聞やビジネス誌が独自のランキングを公表している。日本は序列や格が好きだと言われるが、私の認識では、こと大学・大学院に関しては、アメリカ人の方がはるかにランキング好きだと思う。

 

予備校で競争が起こっているのに、社会にとってより大切な大学で競争がないのは、日本の教育の重大な欠陥の一つである。競争が起こりにくい偏差値ではなく、頑張ればランクが上がるような指標で多面的に評価をするよう、早急に仕組みを改めて欲しいものである。

 

(日沖健、2014年9月8日)